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【意外と知らない三国志故事】 破竹の勢い ~ 杜預による呉平定~

【意外と知らない三国志故事】 破竹の勢い ~ 杜預による呉平定~

三国志と言えば、「桃園結義」から始まり、諸葛亮の無念の死去、「蜀の滅亡」までの流れがよく知られています。
しかし、その後の三国志の物語は意外と知られていません。

「三国志」と名前がつくものならば、当然魏・呉・蜀「三国」全体が終わるまでを知ることが「三国志マスター」への道だと思うのですが、実際には魏が晋に変わったり、蜀が滅亡したりと、「三国」であった時期はそれほど長くないのです。しかも、諸葛亮のような奇抜な作戦を用いた合戦も少なく、どちらかというと政治的抗争の物語が多くなっていきます。

ですが、「三国志」の終焉となる呉平定では、私たちのよく耳にすることわざができたのです。それは「破竹の勢い」…晋の将軍、杜預(とよ)による言葉です。

杜預の不遇時代

杜預は名門の知識人として知られておりましたが、父が司馬懿(しばい)と相性が良くなかったので、罪を着せられ、しまいには幽閉されて命を落としました。

「晋の基礎を築いた司馬懿」

「晋の基礎を築いた司馬懿」

名門であるにもかかわらず、杜預はこのために長年不遇の環境に身を置くことになったのです。

しかし、杜預は司馬懿の息子である司馬昭(しばしょう)の妹婿であったため出世し、父祖の爵位にも就任することができました。

そんな杜預自身は乗馬や弓術が得意ではなく、武人としての素質はありませんでしたが、蜀討伐のときには鎮西長史として従軍しました。

鐘会のクーデターで鄧ガイの殺害が行われ、そのクーデターの鎮圧後、杜預の同僚はすべて重罪が課せられてしまいます。しかし、杜預自身はクーデターに参加しなかったので、その罪に問われることはありませんでした。

最初は不遇であった杜預でしたが、その勤勉ぶりを評価され、呉平定の代表として都督として鎮圧に向かうことになったのです。

破竹の勢い

武帝(晋の初代皇帝 司馬炎 しばえん)は、かねてから呉を討伐する計画を立てていましたが、賛成者は少なく、実行に移しづらい状況でした。

「武帝 司馬炎」

「武帝 司馬炎」

武帝のように呉平定を考えていたのは、杜預を始め、当時の司令官であった羊コ(ようこ)などを含めた数人でした。羊コは病を抱えていたため、後任に杜預を推挙します。

羊コの病没後に行われた司令官交代の隙を突いて呉がせめてきましたが、杜預によって惨敗を喫します。

このことにより、呉の将軍と君主孫コウ(そんこう)の間には不信感が生まれ、呉の国自体も傾いていきました。これを察した杜預は早速、呉平定の上奏文を送り、武帝の許可を得て、呉の侵攻を始めたのです。

建業の近くまで来た時、長雨の時季も相まって退却の提案が出ましたが、杜預はあくまで侵攻を唱えました。

「 楽毅(春秋戦国時代の燕の将軍)は一回の大会戦で燕を大国にした。今、我らの兵の勢いも奮い立ち、例えれば竹を割くようなものだ。数節刀を入れれば後は手を使えば簡単に割れる」(数節は当時の観念では1節が15日、つまり、竹の節と暦の節を掛けたもの)
破竹

その杜預の言葉が後押しとなって侵攻は進み、呉は晋に降伏しました。ここに、統一を見なかった三国時代が終わったのです。また、この杜預の言により「破竹の勢い」という故事成語が誕生したのです。

いかがでしたか?

「破竹の勢い」という言葉をよく聞いた覚えがあっても、意外とその由来は知られていないものです。この機会にそのような故事成語の歴史を詳しく調べてみるのもいいですね。

サラリーマン社会では企画やプロジェクトの進行が行き詰ったり、環境がよくなかったりすると取り下げてしまいがちですが、「破竹の勢い」として最後まで進めると大成果が手に入れられるケースもあります。

ちなみに杜預は杜甫(とほ)の祖先と伝えられています。杜甫はとても有名な詩人ですが、その祖先も歴史に刻まれる名言を残したのは面白いですよね。

※一部の人名に機種依存文字があり、カタカナで表記しております。ご了承ください。

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