歴人マガジン

歴人マガジン

【 富山県民が勤勉な理由 】 殿様商売?売薬を一大産業にした富山藩主の経済政策

【 富山県民が勤勉な理由 】 殿様商売?売薬を一大産業にした富山藩主の経済政策

子どものころ、定期的に各家庭を訪ねて薬箱の中身を補充していくおじさんを見かけたことはありませんか?
このお客さんに薬箱を預ける「置き薬(配置販売)」という商法を全国に広めたのが越中富山の薬売りです。

富山藩が奨励した「薬」産業

富山で薬の製造・販売が盛んになったのは、江戸時代半ばのこと。
本家・加賀前田家から分家して寛永16(1639)年に成立した富山藩は、現在の富山市がある越中の中央部分を治めました。越中は四つの郡に分かれていますが、この全てが富山藩だったわけではなく、西部の射水と砺波、東部の新川の計3郡は本家・加賀藩のものだったのです。

富山藩は石高10万石ながら多くの家臣を抱えていた上、たびたび発生する水害や冷害などで財政難に悩まされていました。
2代目藩主、前田正甫(まえだ・まさとし)は危機感のバネに、しっかりした経済基盤をつくろうとさまざまな産業を奨励。その一つが薬でした。

前田正甫像(富山城址公園)

前田正甫像(富山城址公園)

正甫自身も研究に取り組み、堺の商人が中国人から処方を学んだとされる丸薬「反魂丹(はんごんたん)」に独自の調合を行って、藩内で製造・販売するようになりました。

江戸城腹痛事件で一躍有名になった丸薬「反魂丹」

富山を代表する和漢薬・越中反魂丹(はんごんたん)

富山を代表する和漢薬・越中反魂丹(はんごんたん)

富山の薬売りが全国行商を行うようになったきっかけとして「江戸城腹痛事件」というエピソードが伝わっています。
元禄3(1690)年、参勤交代で江戸城を訪れていた正甫が、腹痛に襲われた三春藩主の秋田輝季に反魂丹を服用させたところ、たちどころに回復。その評判が広まって全国の大名が富山の薬売りの行商と求めるようになったといいます。

このようなトップセールスが事実だったかどうかは確認されていません。ただ正甫は、藩内の薬売りに全国で自由に商売できる許可証「他領商売勝手」を発布。領内で生産した反魂丹を藩外へどんどん〝輸出〟して〝外貨〟を稼ぐことを奨励しました。
商人たちも規律を保ちながら販路を拡大。扱う薬の種類も増やし、売薬は富山藩の一大産業へと成長しました。
「殿様商売」どころではなく、官民一体となった正甫の積極的な経済政策は成功したのです。

しかし、幕府の要請による「御公儀普請手伝い」が度重なったこともあり、江戸時代を通じて藩財政は決して楽ではなかったようです。

富山県民が実直真面目なのは「薬売り」の理念が受け継がれているから?

そんな歴史があったせいか、富山県の人々は勤勉で無駄遣いをせず、実利を重んじる現実主義者が多いとされています。こつこつときまじめに商売にいそしむ姿をねたんで「越中強盗」という言葉が生み出されたくらいです。

現在も受け継がれている越中富山の薬売りの基本理念「先用後利」は、「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」という正甫の訓示から引用されました。

これを実践したのが、まさに置き薬商法。
医学が未発達だった江戸時代は、患者や家族の気持ちに付け込んで効能がはっきりしない薬を法外な価格で売りつける商人も少なくありませんでした。
そんな中、越中富山の薬売りたちは藩主の名を汚さず、孫の代まで商売が続くようにと真心を込めて行商に励み、大名から庶民に至るまで多くの人々の健康保持に貢献したのです。これは現代社会でも十分に通用するビジネス哲学ではないでしょうか。

参照元:
「全国配置薬協会 おきぐすりの歴史」
http://www.zenhaikyo.com/history/
池田屋安兵衛商店
http://www.hangontan.com/

【関連記事】
上田市ではカラスを食べる?真田ゆかりの地に引き継がれる気質と郷土料理
羽生結弦が仙台藩藩主に!映画『殿、利息でござる!』

Return Top