歴人マガジン

歴人マガジン

【 せいしょこさんのおかげ 】 馬刺しも広めた?加藤清正が熊本にもたらしたもの

【 せいしょこさんのおかげ 】 馬刺しも広めた?加藤清正が熊本にもたらしたもの

4月に発生した熊本地震では、震度7クラスの本震が2回も発生し、深刻な被害をもたらしました。被災された方々には心からお見舞い申し上げます。
中でも日本三大名城の一つに数えられる熊本城の石垣や櫓などの損壊は大きな衝撃でした。

現在の姿の熊本城を築いたのは、豊臣秀吉の子飼い家臣で、天正14(1586)年に肥後北半分19万5000石を領地として与えられた加藤清正です。大柄な体格で武勇に優れていたと同時に、築城の名手でもありました。
【秀吉の子飼いから大名へ】虎を仕留めた猛将・加藤清正

「清正(せいしょうりゅう)流」と呼ばれる独特の石垣の組み方は、上に向かうにつれて反り返るように角度が険しくなる形状で、容易に登ることのできない工夫がされています。

彼は優れた土木技術者だったわけですが、当時の武将たちにとって、土木や建築などの実用的な知識は戦国の世を生き残るために必須でした。
軍事面では築城をはじめ、戦場での陣地構築や城攻めでの城郭破壊、内政面では治水のための堤防建設、人馬が移動するための街道整備、城下町開発などなど。大名、武将たちは多種多様なインフラ事業に対応しなくてはならなかったので、清正が土木技術のエキスパートだったとしても不思議なことではありません。

熊本に馬刺しをもたらしたのは清正?

秀吉亡き後、清正は徳川家康に近づき、関ケ原の役での戦功を認められて現在の熊本県に相当する肥後一国52万石の大名となり、慶長16(1611)年に50歳で亡くなるまで熊本にさまざまなものをもたらしました。

その一つと伝えられるのが名物料理の「馬刺し」です。
497px-Basashi111
朝鮮出兵中、戦場で食料が底をついたため清正軍の兵士たちは軍馬の肉を食べて飢えをしのいだのですが、その馬肉が美味だったため帰国後も好んで食べ、食文化として熊本に根付いて馬刺しの発祥となった――。

もっともらしいエピソードですが、裏付ける史料はなく、あくまで俗説とされています。
戦場で飢えをしのぐため、やむを得ず死んだ馬の肉を食すことはあっても、武具と同じように馬を大切にしていた武士たちが平時にも同じことをしていたと考えるのはやや難があります。

西洋文化が流入する明治時代までは日本のほとんどの地域で獣肉食は禁忌とされ、貴族や武士ら上流階層の人々ほど厳格に守っていました。
仏教の影響だという説明がよくされますが、農耕や輸送で重宝された牛馬がやたらと食用にされるのを防ぐという側面もありました。ただ、馬肉や牛肉が滋養豊富なことは知られており、病人やけが人に提供するケースは少なくなかったようです。

熊本と同じく馬刺しが有名な福島県会津地方では、戊辰戦争で負傷者を治療するために馬肉を食べさせたのが発祥であることを郷土史家が突き止めています。

馬刺しとの関係には疑問符が付く清正ですが、得意の土木技術を生かして河川改修や干拓などに取り組み、善政を行って熊本を豊かな土地にしようと力を尽くしたのは事実です。
また「隈本」という当て字を、「勇ましかろう」という理由で「熊本」に変えたのも清正とされています。

清正は、朝鮮出兵では敵から「鬼上官」と恐れられたほどの武将でしたが、普段は穏やかで情に厚く、「主計頭(清正の役職名)は喧嘩下手」という言葉があるくらい、争いごとを好まなかったといわれます。
そんな清正の男気が、激しい気性から「肥後もっこす」と呼ばれる熊本の人々に愛され、地元の名物や良い事績はすべて「せいしょこ(清正公)さんのおかげ」としているのかもしれません。

【関連記事】
清正、信長…あの有名武将が名付けた都道府県名

Return Top