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【 幻のシックスマン?】 豊臣政権「五大老」、実は六人目にはあの智将がいた

【 幻のシックスマン?】 豊臣政権「五大老」、実は六人目にはあの智将がいた

歴史好きはもちろん、そうでない人も「五大老」という言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
五大老とは、豊臣秀吉が政権を運営するために大老に就任させた、徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元の五人の5人のこと。

秀吉は嫡男・秀頼が大きくなるまで、この五大老と、石田三成ら五奉行と呼ばれる重臣を中心に政務を行うよう言い残し亡くなります。世にいう「五大老・五奉行」制度です。
ですが、この5人の他に6人目の大老がいたのをご存知でしょうか。今回はそんな幻の6人目の大老をご紹介します。

6人目の大老・小早川隆景

小早川隆景像

小早川隆景像

6人目の大老は、小早川隆景だったといわれています。毛利元就の三男として、三本の矢のエピソードでも有名ですね。
五大老の筆頭・徳川家康は関東地方で250万石を有しており、前田利家が83万石、上杉景勝と毛利輝元はそれぞれ120万石、宇喜多秀家は57万石という石高でした。
小早川隆景は大老に就任した時33万石しかなく、他の5人に比べると低い石高でした。また彼は毛利家の重臣であるため、独立した大名でもありません。そんな彼がなぜ大老の職に就任することができたのでしょうか。

一番の理由は、秀吉から大きな信頼を寄せられていたためです。
彼は毛利家を長年支えてきた優秀な政治家で、秀吉は隆景の政治における優れた判断力を「彼に西日本の政治を任せておれば、問題ない」と評価し、絶大な信頼を寄せていました。そのため、隆景は豊臣政権下において大老の職に就任することになります。

なぜ六大老にならなかったのか?

五大老の花押。上段左より上杉景勝・毛利輝元、下段左より宇喜多秀家・前田利家・徳川家康。下段は上下逆。

五大老の花押。上段左より上杉景勝・毛利輝元、下段左より宇喜多秀家・前田利家・徳川家康。下段は上下逆。

小早川隆景が、五大老と並んで名前がないのはなぜでしょうか。その理由は、五大老制ができる前に隆景が亡くなってしまったからです。五大老制度は豊臣秀次が乱心事件を起こして亡くなった後、政治的な混乱を起こさせないために、五人の大老衆によって全国の政治を安定させるために制定された制度です。この制度が制定される前に小早川隆景が亡くなってしまったため、彼の名前が五大老に並ぶことはなかったのです。

実は隆景の死後、六大老の案があった!?

小早川隆景の死後、彼が就任していた大老の職を補填させるために、前田利家と徳川家康が話し合い、六人目の大老として家康の次男・結城秀康の名が挙がります。しかし、結局実行に移されることはありませんでした。その理由は、前田利家が死去したためです。彼が生きていれば六大老制が実現していたかもしれませんね。

徳川家康の次男・結城秀康

徳川家康の次男・結城秀康

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今回は豊臣政権下における幻の「六大老」、6人目の大老についてご紹介しました。
もし小早川隆景が長命であれば、もしくは結城秀康が六大老に就任していれば、歴史は変わっていたことでしょう。
そんな風に「歴史のif」を考えるのも面白いですね。

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