歴人マガジン

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【借金まみれのスーパークリエイター】作家?発明家?江戸のお騒がせ革命児、平賀源内の波乱万丈人生

「平賀鳩渓肖像」 木村黙老著『戯作者考補遺』(写本)より。
(慶應義塾図書館所蔵)

平賀源内(ひらがげんない)は、享保13(1728)年に現在の香川県、高松藩の中心地から離れた志度(しど)と呼ばれる港町で生まれました。親は下級武士です。

源内の運命は、24歳の時に大きく変わります。高松藩から長崎へ遊学することになったのです。
当時の長崎は、鎖国政策のなか、唯一海外に開かれた貿易港。オランダから中国等々を経て、珍しい貿易品や工業品が輸入されていました。
そこで望遠鏡や映写機という精密機器、見たこともない動物が描かれた学術書、医療書などに出会い、世界の広さを感じた源内はこう感じます。
「藩の枠にいては何もなす事が出来ない」と。長崎から戻るや否や、源内は破天荒な行動に出ます。藩の仕事を辞め、源内は浪人になり、大都会江戸へ旅立ったのです。

事業家としての才能を発揮し「全国物産展」を実現

宝暦6(1756)年、源内は28歳の頃、江戸に到着します。この時代の江戸は、才能溢れる文化人や学者等が集まり、学問や芸術の成長が著しい頃でした。

源内は、ここでも画期的なアイディアを捻り出し、他の学者や研究者の度肝を抜きます。それは、全国の珍しい物産を集め、藩の壁を超えた物産展を開くことです。交通や物流がまだまだ未発達な江戸時代、全国から物産を集めるは困難を極めました。この困難に対し、まずは全国に散らばる飛脚問屋と契約し独自の物流網を整備しました。

源内が開催した物産展「東都薬品会」の際に使用された引札
(平賀源内記念館蔵)

さらに引札(ひきふだ)と呼ばれるチラシを作り、全国の学者に物産の提供を呼びかけました。引札には全国約20箇所の地名と取次所(とりつぎしょ)が書かれ、そこから物産を中継して江戸に運ぶネットワークを構築したのです。
さらに、物産を送りやすくするために、江戸での着払いで物産が届くよう、出品者に対して細かな気配りをしています。

物産展引札には、こう書かれています。
「日本の国内の産物を出し尽くせば、中国、オランダなどから輸入しなくとも事足りるはずである」
輸入に頼らず、国内の物産で産業を起こして、国益に繋げる。それこそ源内が目指した目標です。

源内が記した博物学書『物類品隲』。物産展に出品された産物が解説されている
(平賀源内記念館蔵)

文芸家として人々の心を魅了する

この革命児は戯作家(げさくか)としても有名です。
戯作とは当時でいう大衆小説事を指しています。源内の代表作品として挙げられるのが、『放屁論(ほうひろん)』という作品です。これは、オナラの音を自在に操り人気を博していた芸人を、独自の視点で褒めたたえたエッセイ集でした。
また、『根南志具佐(ねなしぐさ)』は源内のデビュー作。あの世とこの世を行き来し、閻魔大王・歌舞伎の女形(おんながた)である瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)・カッパという異色のメンツが織り成すドタバタ恋愛コメディという奇想天外なお話を書いています。

平賀源内集「根南志具佐」
(国立国会図書館蔵)

偉大なる発明は理解されず?

そして何より発明家としても有名です。量程器(りょうていき)と呼ばれる腰に付ける歩数計等を発明した他、火浣布(かかんぷ)と呼ばれる火に燃えない布も発明。江戸幕府などに売り込んだものの、他の仕事に夢中になってしまったようで、それ以後どうなったかは記録に残っていません。源内の周りにいる人達は振り回されて、大変だったのではないでしょうか?

平賀源内記念館に所蔵されているエレキテル。さぬき市指定文化財。
(平賀源内記念館蔵)

人生の晩年には、人工的に静電気を発する装置・エレキテルの復元に着手します。その後、6年に及ぶ苦闘の末、壊れたエレキテルの復元に成功します。源内がエレキテルの復元に成功したことで、外国から高価な製品を輸入をしなくても、日本国内で作ることができることを人々に知らしめました。
しかし、当時の庶民からしてみたら、電気と言われても暗がりに光る火にしか見えず、その偉大さが伝わらなかったようです。時代の先を行く革命児ならではの苦悩ですね。

記念館には他にも源内ゆかりの品の数々が展示されています。
平賀源内記念館
(香川県さぬき市)

革命児の型破りで孤独な最期

源内は徐々に追い詰められていきます。
「功ならず、名ばかり遂げて、年暮れぬ」源内が友人に送った苦しみの一句です。早過ぎた天才の悲劇、源内は些細なことで怒りやすくなり人々の心は離れていきます。

エレキテル復元から3年後の安永8(1779)年、人間不信の境地に達していた源内は、勘違いが元で人を殺めてしまいます。
捕らえられた源内は獄中で破傷風に掛かり、1ヶ月後に死去。享年52歳、江戸を賑わせた天才の最期はとても孤独なものでした。

平賀家の菩提寺である自性院に立つ源内の墓

平賀源内のお墓には、親友の杉田玄白(すぎたげんぱく)が彼の死を悼み語られた石碑が残っています。
「ああ、非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、なんぞ非常に死するや」
常識を打ち破り、非常に散っていった平賀源内の人生は、まさに「江戸の革命児」と呼ぶに相応しい人物ではないでしょうか。

時代の先を行く革命児には、他にも画家、陶芸家、鉱山家としての顔もあります。才能が溢れていた一方で、最期まで生活に苦しみ働き続けた源内の姿が浮かぶようです。

参照元
平賀源内記念館
国立国会図書館デジタルコレクション

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