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【 鉄砲1挺に2億円?! 】 おんな城主 直虎が驚いた火縄銃の値段と、戦国日本への普及


大河ドラマ「おんな城主 直虎」に、種子島(たねがしま)が登場した。種子島とは火縄銃、つまり鉄砲のこと。戦国時代の天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたことから、「種子島」といえば火縄銃を意味するようになったという。

ご存じの通り、鉄砲は合戦スタイルを一変させ、戦国時代の終焉を早めた新鋭兵器。ドラマでは主人公・井伊直虎がその値段の高さを聞いて驚く場面があったが、伝来から20年ほどが経ったあの頃でも、まだ貴重であり高価だった。しかし有効射程距離が100m~200mで、命中の精度も低く、実戦ではなかなか運用しづらかったようだ。

実は、「鉄砲」と日本人の出会いはもう少し時代をさかのぼる。鎌倉時代後期の「元寇」の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」には、元軍の兵士が使った武器として「てつはう」が描かれている。それは今にイメージされる鉄砲とは異なり、手榴弾のように投げて使う小型の爆薬だった。

「てつはう」ではなく、火縄銃としての鉄砲の伝来時期は上にも書いたように天文12年(1543年)が定説になっている。これは島津家と関わりの深い南浦文之(なんぽぶんし)という僧侶が、江戸時代初期に書いた『鉄炮記』(てっぽうき)に記された記述がもとになっている。

(武道藝術秘傳圖會より。画像はイメージです)

この伝来時期には異論も多く出ている。ポルトガル人やスペイン人が記した航海記などの中には1541~1542年と記したものが数点あるほか、『北条五代記』には永正7年(1510)、『三河物語』には永正3年(1506)と、かなり早くから火縄銃が存在していたことを記した古書もある。

ただ、『鉄炮記』ほど火縄銃伝来の様子を詳しく書いた史料はない。やはり目下のところ、この時期あたりに伝来したと見て良さそうだ。その記述はだいたいこんな感じである。

「8月25日、100人ばかりの異国人を乗せた大船が種子島の西岸に来着した。彼らの服装は初めて見るものばかりで、言葉も通じなかった。ただ乗船者の中に一人の中国人がおり、漢文で筆談ができた。それによれば外国人らは、みな南蛮商人という。島主の種子島時堯(ときたか)が、その中のポルトガル人2名が持っていた2挺の鉄炮を買い求めた」

このとき、時堯がポルトガル人に支払ったのは金4000両だったという。現在の価格に直すと、1挺あたり2億円、合計4億円(概算)にもなる。ただし、この「両」という貨幣単位は江戸時代のものであり、伝来当時の天文期にはなかった。『鉄炮記』が書かれたのが江戸時代の初めだったので両と記されたと思われるが、そのおかげで正しい値段が分からないのである。

そのため、種子島時堯が支払ったのは金ではなく銀だったとか、2000両は大げさで、実際にはもう少し安かったのではないかとも推測されている。よって、上記グラフにはそれぐらいの推定額(1億円)を記しておいた。いずれにしても、「とんでもない金額」だったのは確かだ。

(村田銃発明物語より。画像はイメージです)

種子島時堯は、家臣たちに射撃術を習わせ、刀鍛冶に火縄銃の作り方を研究させた。このとき、刀鍛冶は火縄銃を調べるも仕組みが分からず、分解して調べたいと願ったが、時堯はそれを許さなかった。困った刀鍛冶は娘をポルトガル人に嫁がせてまで、その方法を教わったという伝承が残っている。

その後、2挺のうち1挺は紀州根来寺から来ていた杉坊(すぎのぼう)に譲られ、杉坊はそれを根来へと持ち帰った。火縄銃は根来から堺へ、堺から京や近江へと伝わり、大量生産されるようになる。当然、目もくらむようだった値段も次第に下がり、全国へと普及していった。

(長篠合戦図屏風より)

ご存じのように、火縄銃を合戦で本格的に運用したのは織田信長といわれている。「長篠・設楽原の戦い」(1575年)で、火縄銃を活用して武田軍を撃破したことは有名だ。この戦いで使用された火縄銃の数は3000挺とも1000挺ともいわれる。信長の家臣が書いた『信長公記』では千挺とあるので、3000は誇張された数だろう。

「長篠・設楽原の戦い」のころは、伝来からすでに30年が経ち、火縄銃の値段もかなり安くなっていただろう。しかし、1000挺も揃えるとなれば10億円もの莫大な金が必要だった。堺の商人らから2万貫(約20~30億)を得ていた信長であれば不可能ではなかったと思うが、それでもまだ大変な額。

この頃には1挺あたり10貫程度に下がっていたとされるが、1挺や2挺では合戦では役立たないから、まとまった数が必要だった。それに加え、弾丸や火薬などの経費も安くはなかった。ドラマの直虎が「とても買えない」と嘆いたのも無理からぬところで、裕福ではない国衆にはなかなか手の出ないものだっただろう。

伝来から30年という歳月を今の時代とモノに置き換えてみると、日本で最初の携帯電話が登場したのが30年ほど前。1985年に登場した「ショルダーフォン」はレンタル専用で、所持するための保証金が20万円。さらに月額基本料2万6000円、それとは別に通話料までかかるものだった。バブル期とはいえ、どれだけ高価だったか分かるだろう。

(画像はイメージです)

鉄砲は信長から秀吉の時代へと移った天正時代あたりから、近江の国友村などで量産化され、また口径の大きな大筒も生産された。秀吉の唐入り(朝鮮出兵)の頃には日本軍の鉄砲装備率は20~30%を超えていたといい、関ヶ原の戦いの時には5万挺とも8万挺ともいわれる数の鉄砲が使われたという。やがては戦場において馬上から射撃できる騎馬鉄砲術、雨天でも使用するための技術などもが研究されるようになっていく。

俗説ながら、「日本に鉄砲を持っていけば大儲けできる」と考えたヨーロッパ人が大量の鉄砲を持ってきた時には、すでに日本では鉄砲が大量生産され、まったく売れなかったという逸話もある。

なぜ、このような大量生産が可能だったのか。日本には優れた日本刀を造る刀匠(刀鍛冶)が大勢いて、彼らは鉄を加工する高度な技術を持っていた。その刀鍛冶が鉄砲の普及とともに鉄砲造りにも取り組み、瞬く間にたくさんの鉄砲を造りあげていったのである。

2挺の鉄砲がもたらした戦国時代の大変革。その歴史的影響の大きさから鑑みれば、1挺2億円という値段は、むしろ安いものだったのかもしれない。

【文/上永哲矢(哲舟)】

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