歴史の教科書がいつの間にか変化してきていることにお気づきでしょうか。
「鳴くよ(794)ウグイス平安京」
「人世むな(1467)しく応仁の乱」など、
年表ではテスト対策に語呂合わせで覚えた方も多いでしょう。
ですが、今やあの一番有名な語呂合わせまで変わっているのです。
それでは歴史の教科書が変化している例を3つ挙げていきましょう。
いい国(1192)は作れない? 鎌倉幕府の成立!
まずは、鎌倉幕府の成立です。超有名な「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」ですが、実は今の教科書には存在しません。
現在の学生たちが覚えている鎌倉幕府の成立は、「1185年」となっているのです。
もちろん、頼朝に聞いたわけではないので真偽はともかく、なぜ幕府の成立時期が文治元(1185)年に変更されたのでしょうか。
それは源頼朝が朝廷から文治の勅許を得たのが文治元(1185)年だからです。
朝廷から文治の勅許を得ることというのは、与えられた諸国に守護や地頭を設置・任免できるというものでした。
今でいう軍隊・警察・役所のようなものですが、これらの一任を頼朝に託すということです。
建久3(1192)年には征夷大将軍に任命されていますが、それ以前から諸国を支配して朝廷からの実権を握っていた頼朝に対して、乾宮(1192)年に成立はおかしいだろうという論議がなされていたのです。
大化の改新は645年より1年後だった?!
「無事故(645)で終わった大化の改新」ですが、これも大化元(645)年ではなく、翌年の大化2(646)年だと改定されています。
そもそも大化の改新は豪族中心の政治から天皇中心の政治へと脱却するために行った改革のことで、中大兄皇子らが豪族の蘇我氏を滅ぼした乙巳の変が、大化元(645)年で、改新の詔を出したのが大化2(646)年の1月とされています。
どちらも覚えやすいので、「まあいいか」となってしまいそうですね。
仁徳天皇陵は大仙古墳へ
大阪府堺市にある世界最大級の鍵型の墳墓はご存じでしょうか。
「なぜこのようなものを…」と子供のときに不思議に思った人も少なくないですよね。
実はこの古墳、仁徳天皇のお墓かどうかの論議が結構前からなされています。
管理している宮内庁では「仁徳天皇陵」としていますが、調査のための発掘を認めておらず、学術的には検証がなされていなのが現状です。
形状を現す大山・大仙と埋葬者から、
「仁徳天皇陵」→「仁徳陵古墳」→「大仙古墳」と
名称を変えており、現在の教科書には「大仙古墳(仁徳陵古墳)」と表記されています。
昔覚えた歴史が、現代の子供たちには通用しないことがあるなんて不思議なものです。
それも当たり前に覚えてきた名称や年代が変わるなんて、これから先もあらゆる歴史認識が、新しく改変されていくことがあるかもしれませんね。