美男美女に惹かれるのも世の常ですが、「美」の基準が流行り廃りの中で変化していくのも世の常。
日本の「美男美女」の基準が時代によってどう変化して行ったのかを追っていきます。
ポッチャリがモテた奈良時代
奈良時代(710~794年)に美人だと評されていたのは、女帝であった元正(げんしょう)天皇。
「艶やかで美しい」と伝えられており、性格が「慈悲深く落ち着いている」とあるので内面も評価ポイントに入っていたようです。
富の象徴として、ポッチャリとして太目の女性も人気がありました。
見た目より知性が大事な平安時代
平安時代(794~1185年)には、切れ長の目や瓢箪型の顔、長い髪などが美女の条件とされていましたが、もっとも重要なのは「知性」。
男女問わず「和歌が読めること」が美男美女の絶対条件であったため、和歌もロクに読めない人間は出会いすら無かったそう。
そのため、貴族は必死になって自分の子供に知的な家庭教師を付けたがります。
そんな貴族の家庭教師の中で有名な人物が、「清少納言」や「紫式部」といった日本を代表する歌人や作家です。
また、知識をもっていても「ひけらかさない」というのも重要なポイントで、男性が使う漢字を女性がおおっぴらに使用すると批判されてしまうケースがあったらしいです。
「能面」は理想的な顔だった
平安時代末期から日本は「公家の時代」から「武家の時代」へ。
鎌倉~安土桃山時代(1185~1603年)になると、男性は武芸の素養が重要とされてきますが、一方でアクティブな女性が多く世に出てきます。
平安末期に居た女武者の「巴御前」、踊り子である白拍子の「静御前」、歌舞伎踊りの「出雲阿国」と、文化面・武芸面ともに平安時代の雅な女性たちとは違う美女が多く存在し、後に語り継がれていきます。
特に巴御前は「敵の首を素手で引き千切る」という凄いエピソードが組まれた物語もあるほど。
現在にも残る「能面」は当時の「理想的美女」を模ったものだとされています。
江戸時代はトレンド最先端な人ほどカッコイイ!
長期安定した江戸時代(1603~1868年)、「色白」「ふっくらしている」など美人の一定条件はあったものの、流行の入れ代わりが激しく、江戸っ子は常に流行を追っていました。そのため「流行に敏感」なことがモテる条件の一つであったそう。
過度に流行を追いお金を浪費する庶民に、江戸幕府は禁止令を出すなどして対応。
室町時代から続く奇抜な衣装の「傾き者(かぶきもの)」を取り締まったり、ひげの手入れに使う高価な鬚(ひげ)付け油が流行れば取り締まるなど、幕府と庶民の攻防が常に存在しました。
女性のファッションリーダーは「遊女」。
吉原などで名を馳せた「高尾太夫(たかおだゆう)」といった美女たちの浮世絵が大人気でした。
それまでは女性の化粧といえば「白粉」をベッタリ塗るのが一般的でしたが、江戸時代頃からすっぴんに近いナチュラルメイクが主流となってきます。
時代によって変わる「美男美女の条件」。
日本では、いつの時代、どんな立場であれ表面的な美醜だけではなく、「知性」や「武芸」、「立ち居振る舞い」といった要素も美男美女の重要なポイントだったようです。