
そろそろお腹が減ってくるこの時間帯、今日のご飯は何にしよう?なんて考えてる方も多いはず。
私たちは現在当たり前のように1日3食を食べていますが、この習慣が全国に広がったのは明治時代といわれています。その前は、というと基本的には1日朝夕の2食でした。
事実、平安時代の有名な書物である「枕草子」には
「大工さんが食事の時間以外に食事をしているのが大変おかしい」という一説があります。
当時は貴族はもちろんのこと、肉体労働中心の農民までもが、1日2食であったことがうかがえるのです。
では、どうして1日3回食事をするようになったのでしょうか?
理由の1つは中国からの伝来です。
鎌倉時代に中国から禅宗が伝わったとき、曹洞宗の開祖である道元は、中国で一般的だった1日3食という習慣を輸入しました。しかし、この習慣は一部の貴族や僧侶にしか広まりませんでした。
その後、時は流れ戦国時代になり、1日3食の食文化が武士の間に広まるようになってきます。彼らは戦で思う存分戦えるように、米などをふところに忍ばせて持ち歩いたといいます。今でいう「弁当」の元祖です。
戦国大名が家族と食事することはほぼ無かった?
それでは、戦国時代の1日3食の実態を見ていきましょう。
まずは朝食ですが、戦国大名が起床すると、髪を整えて重臣たちと会食します。そこで昨夜あったことや物見の知らせによる敵軍の動向、書状などを確認します。そのうえで、その日の予定や方針、各家臣への命令などを行ったりしました。
夕食もほぼ同様で、今日1日の報告と明日の予定などを重臣たちと話し合い、登城した者にはその場で具体的な指示を出していました。
ちなみに戦国大名が奥で家族と食事をすることはほとんどなく、あったとしても晩酌程度であったといわれています。

下級武士などはそれぞれの屋敷で米、味噌汁、魚などといったものを朝食べてから、登城をしたといいます。夕食もほぼ同様でした。
昼食を食べたのは、合戦など特別な場合に限られました。
合戦はもちろん生きるか死ぬかという戦いですから、大変なエネルギーを使います。そのため1日2食というような悠長なことは言っていられません。
そこで彼らは各々の方法で保存食を作り、合戦時すぐに食べられるように工夫したと言われています。
合戦によっては昼食休憩として一定時間停戦するような戦もあり、食べているときに敵に襲われるということはあまりありませんでした。
戦国時代の陣中食「兵糧丸」ってどんなもの?
兵糧丸とは、戦国時代の足軽が最も一般的に食べていたものだといわれています。
それでは兵士たちの代表的な陣中食である「兵糧丸」の作り方を見ていきましょう。
作り方はそれぞれの大名家によって違いますが、今回は上杉家に伝わるとされるレシピを参照します。

【材料】
・白玉粉
・小麦粉
・そば粉
・すりごま1)上記の材料に砂糖・酒を適量入れます
2)水と適量の酒をかけながら、混ぜていきます。
3)それを丸めて、せいろで蒸します。
4)最後にきな粉をふれば完成です。
さらにこのまま天日干しで乾燥させれば、長期保存がきくようになる優れものですので、地震など災害時の非常食としても良いかもしれません。
戦国時代、1日3食というのは合戦など特別な場合に限られていたのですね。
やはり「腹が減っては戦ができぬ」というように、合戦を控えた兵士たちには1日2食では足りなかったのでしょう。
明治時代になって、庶民が工場などで1日働くようになると、再び1日3食が広まるようになり、そこから全国に広がっていくようになりました。
このことからも、1日3食という習慣は人間の1日の労働に大きく関係していることが分かりますね。
今日は頑張って働いた!という方は、たくさん食べて、明日への活力にしましょう。