歴史の陰に女あり、とはよく言われますが、特に偉人の側にはたいていそれを支える妻がいましたよね。
彼らはどのようにして出会い、偉人はなぜ彼女たちを選んだのでしょう。偉人ならではの「女性の選び方」参考になさってみてはいかがでしょうか?
夫に尽くす妻であれ:明智光秀・煕子(ひろこ)
本能寺の変で有名になってしまった明智光秀とその妻の煕子。
光秀との婚約時、煕子は疱瘡にかかり顔に痕が残ってしまいます。それを案じた父親は、煕子の妹を替え玉にして光秀の元にやりますが、光秀はそれを見破り一言「私が妻とするのは煕子殿と決めている」。
こうして2人は夫婦となりました。
その後、光秀は浪人生活を送ることになってしまいます。当然、生活は貧しく、家計のやりくりは大変でした。
朝倉氏の元で糊口をしのいでいる時、光秀は連歌会を催さなくてはならなくなります。しかしそんなお金はありません。
困り果てた夫を見た煕子は、なんと自分の美しい黒髪を売ってお金を用立てます。
光秀は深く感謝し、彼女だけを愛し続けたそうです。
あばたが残っても構わない、と煕子を選んだ光秀。おそらく、彼には煕子の心根の美しさがわかっていたのでしょう。
命がけで愛してくれる女性を選べ:桂小五郎・幾松
長州藩の頭脳、尊王攘夷派の筆頭だった桂小五郎は、京都きっての売れっ子芸妓・幾松と出会い、恋に落ちます。
しかし常に幕府側から命を狙われていた桂は、池田屋事件でも危機一髪の目に遭いました。橋の下に隠れていた彼の所へ、幾松は何度も食事を運んだそうです。
また、出石(兵庫県)に逃れた桂を追って、同行者に裏切られながらも女の一人旅を続けて迎えに行ったのです。
そして2人は身分差を乗り越え、晴れて結婚しました。幾松は名前を松子と改め、木戸孝允・松子夫妻が誕生しました。
その後の松子は、政府高官夫人として夫の宴席に同行したり、同僚たちに手料理を振る舞ったりと内助の功で支えました。
常に命の危機にさらされる身だったからこそ、桂は命がけで自分を愛してくれた幾松を選んだのだと思います。
何も言わずに支えて欲しい:伊藤博文・梅子
初代内閣総理大臣・伊藤博文がまだ「春輔」と名乗っている頃、お茶屋で働く梅子と出会いました。
当時、彼には妻がいたのですが、ふたりは深い仲となってしまいます。
しかし博文が明治維新で奔走している間に、梅子は芸者置屋に売られてしまいます。この時すでに彼女は博文の子を身ごもっていました。
博文が迎えに行くと、置屋の主人は「結婚するなら身請けさせてやる」と言います。そこで博文は妻と別れる決断をし、梅子と結婚したのでした。
博文のあだ名は「箒」でした。掃いて捨てるほど女がいる、という意味です。彼は無類の芸者好きで、明治天皇に苦言を呈されても直らなかったほどでした。
そんな夫に梅子は尽くしました。女遊びに目くじらを立てることもなく、夫が家に連れ込んだ芸者に土産を持たせてやったり、一晩を過ごしても化粧など身の回りの世話をしてやったりしたのだそうです。
また、梅子は努力家でした。英語や和歌を一から学んでマスターし、鹿鳴館でのファーストレディの役割を見事にこなしています。
<番外編>わしの子をたくさん産んで欲しい:徳川家康
家康の若い頃、側室は子供を産んだことのある未亡人ばかりでした。
これは、子孫をちゃんと残せるという保証がある女性を選び、子どもをたくさん残したいという家康の意図があったそうですよ。
晩年は10代の少女ばかりを相手にしていたそうですが・・・。
やっぱり現代とは違い、激動の時代に奔走する偉人たちには「尽くしてくれる女性」がいいのでしょうか。
命がけで毎日を生きるからこそ、信頼できる女性を選ぶのでしょうね。歴史は良妻の宝庫です。もっと知りたくなりますね!
(xiao)
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