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【大坂夏の陣に散る】勇猛果敢な大坂城五人衆・後藤又兵衛

大河ドラマ「真田丸」では哀川翔さんが演じた後藤基次こと後藤又兵衛
勇猛果敢で「大坂城五人衆」の一人としても有名な優れた武将でしたが、その晩年は浮き沈みの激しいものでした。又兵衛はどんな人物だったのか、エピソードに触れつつご紹介します。

後藤又兵衛の略歴~黒田家出奔まで

後藤基次 / 後藤又兵衛
後藤基次 / 後藤又兵衛

後藤又兵衛の本名は基次ですが、通称の又兵衛の方が知られています。
永禄3(1560)年、播磨国姫路近郊に生まれましたが、幼くして父を亡くし、その後は黒田官兵衛が引き取り養育します。

一時、親族に連座して黒田家を離れますが、帰参し、黒田家の武将として朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで活躍しました。関ヶ原で目覚ましい活躍を見せた黒田軍の中で、又兵衛は石田三成配下の槍の名手・大橋掃部を破り、武功を挙げました。

戦後は官兵衛の息子・長政に従い、九州で一城を任されます。しかし官兵衛が亡くなると長政と不和になり、黒田家を出奔してしまうのです。

黒田長政との不和

「又兵衛の主君、黒田長政」
「又兵衛の主君、黒田長政」

又兵衛と長政の不和には様々な説がありますが、大きな要因としては、又兵衛が周辺大名と書状を取り交わして交流していたことにあります。見方によっては内通とも受け取られかねず、相手が長政と仲の悪い細川忠興だったことも、長政の怒りを増幅させました。

又兵衛は細川家に身を寄せますが、長政は「奉公構」で又兵衛を追いつめます。
「奉公構」とは、出奔した家臣を他家が召し抱えないようにするお触れで、切腹に次ぐ重い仕打ちでした。
武勇に優れた又兵衛を、福島正則ほか多くの大名が召し出そうとしましたが、奉公構により断念せざるを得なかったのです。

そのため、又兵衛は京都で浪人生活に入ることになりました。

最後の一花、大坂の陣

黒田長政が一流の絵師たちに描かせた「大坂夏の陣図屏風」
黒田長政が一流の絵師たちに描かせた「大坂夏の陣図屏風」

大坂冬の陣が勃発する頃になると、京都で浪人中の又兵衛に、大坂城への入城要請がかかります。
同時期に真田信繁もやってきています。
又兵衛はすぐに入城し、浪人の寄せ集めだった豊臣軍を軍としてまとめました。

徳川家康は播磨50万石をダシに味方になれと誘いますが、又兵衛は「落城間近だというのに、弱きを捨て強きに付くことはできない」と断っています。
しかし、戦況が又兵衛や信繁だけで変わるはずもありませんでした。
夏の陣、道明寺の戦いにて伊達家の鉄砲を受け、又兵衛は戦場に散ったのです。享年56歳でした。

又兵衛の逸話

「又兵衛桜(奈良県宇陀市)」
「又兵衛桜(奈良県宇陀市)」

武士らしい男気溢れる逸話についてもご紹介しましょう。

大坂冬の陣の際、苦戦する若武者・木村重成の様子を城から見た又兵衛は、すぐに援護に駆けつけました。銃撃戦の中に仁王立ちすると、「戦とはこうするものぞ!」と自ら鉄砲を撃ち返します。そのおかげで、形勢は逆転したそうです。なんとも男らしいですね。

また、長政との微妙な関係を示す逸話もあります。
朝鮮出兵時、長政が敵と組み合って川に落ちますが、又兵衛は助けません。なぜだと問われると「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言い放ち、ほったらかしだったそうです。長政はこれを後々恨んだそうですよ・・・
また、陣中に虎が出たために又兵衛が退治したのですが、長政は「将たる身で畜生と争うとは不心得」と叱責したそうです。

しかし、そんなひどい仕打ちを受けても、又兵衛は長政のことを悪くは言いませんでした。

細川家に滞在中、又兵衛は長政について聞かれます。
すると又兵衛は「鉄砲隊に敵の先頭を撃たせれば、5人目までにはやすやすと長政を仕留められるでしょう」と答えます。そして、「彼は天性剛毅な人で、合戦では兵と先陣を争うほどの猛将なのです」と付け加え、かつての主の武威を語りました。細川家の人々もその態度に感心したといいます。

主君だった長政とのすれ違いがその後の人生を左右してしまった又兵衛。
時間をかければわかりあえたような気もするのですが、いつの時代もこじれた関係の修復は難しいものです。皆さん、仲直りはお早めに。

(xiao)

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