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【全ては主君・政宗のため】片倉小十郎景綱の余りある忠義

【全ては主君・政宗のため】片倉小十郎景綱の余りある忠義

大将の側には軍師あり。
伊達政宗の側には常に片倉小十郎景綱の姿がありました。
生涯をすべて政宗の側で過ごした彼の忠義は、いささか行き過ぎた感のある場合もありまして・・・。
そんな片倉小十郎景綱の生涯と、主君・伊達政宗とのエピソードをご紹介します。

片倉小十郎景綱とは

「伊達政宗に仕えた片倉景綱」
「伊達政宗に仕えた片倉景綱」

片倉景綱は弘治3(1557)年に置賜郡永井庄の八幡神社(現・成島八幡神社)の神職、片倉景重の二男として生まれました。通称は小十郎です。
幼くして両親を亡くしたため、異父姉の喜多に養育されました。その喜多が、伊達家の嫡男・政宗の乳母(この場合は教育係的なもの)として召し出され、その後に伊達家家臣の遠藤基信の推挙があり、政宗の近習として仕えることになります。景綱19歳、政宗9歳の時でした。

景綱は政宗の重臣となり、存在感を増していきます。伊達家の主な戦いにはすべて参戦し、時には政宗の命を救いました。武勇もありながら、謀略にも内政にも優れた彼は、いつしか「智の片倉景綱」と称されるようになったのです。
その名は伊達家の領地を超え、徳川や豊臣まで聞こえていました。豊臣秀吉にヘッドハンティングまで受けたほどでしたが、景綱はそれに応じることはありませんでした。

慶長19(1614)年からの大坂の陣には病のため参戦できず、息子の重綱(後の重長)を派遣します。そして翌年、59歳で死去しましたが、彼を慕って6人の家臣が殉死したそうです。

主君・政宗の性格改造計画

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まず、景綱と政宗のエピソードとして最も有名なものをご紹介しましょう。

幼少時に疱瘡(天然痘)を患った政宗は、右目を失明してしまいました。その上、眼球が飛び出て醜い容貌となっていたのです。それをコンプレックスに感じており、政宗は暗く内向的な少年でした。
そこで、景綱は政宗の性格を直すべく驚くべき行動に出ます。
なんと、短刀で政宗の飛び出た眼球を抉り取ってしまったのです。

荒療治でしたが、これで政宗の性格は劇的に変化しました。以後、彼は学問と武道に励む活発な少年となったのです。景綱なくして後の独眼竜はいなかったというわけですね。

荒療治と言えばこういう話もありました。

脇腹にできた出来物に苦しんでいた政宗ですが、それは焼いた鉄の棒で焼き切るしかありませんでした。
そこで景綱に頼むと、まず彼は自分の無傷の腿に熱した鉄棒を押し当てたのです。そして自分が大丈夫であることを確認してから、政宗に処置を施しました。
結果、政宗の出来物は治りましたが、景綱の傷が治るにはもっと長く時間がかかったそうです・・・。

生まれる子が男なら殺す!

景綱は妻を娶り、やがて懐妊しました。景綱は政宗より10歳年上なので、結婚も子を持つのも早くて当然なのですが、景綱はそうは考えなかったようです。
景綱は「主君より先に子をもうけるとは申し訳ない、生まれてくる子が男ならば殺すのだ!」と妻に言いました。何ということを・・・。

それを聞き及んだ政宗は驚き、慌てて手紙をしたためます。
とにかく思い止まって欲しい、子を殺したら私が恨む、などと書き連ねた実物が今も残っているそうですよ。
景綱は思い止まり、めでたく子供は生まれました。その子が後継ぎとなる重綱(重長)です。

そこまでしなくてもいいのにと思いますが、おそらく当時の政宗も同じ思いだったことでしょうね。何だかいろいろ行き過ぎです。

景綱の子孫は、現在は政宗を祭神とする青葉神社の宮司として、今も政宗を守っています。
400年もの時を経てもなお変わらない忠誠は、景綱から受け継がれたのでしょう。
片倉景綱も、伊達政宗も逸話に事欠きません。他にもいろいろなエピソードが伝わっているので、ぜひ調べてみてはいかがでしょうか。

(xiao)

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