戦国時代の三覇者、信長・秀吉・家康は何度も暗殺者に命を狙われていました。信長は、杉谷善住坊による狙撃事件が有名ですが、秀吉も標的になっています。ここでは秀吉を狙った3人の狙撃者をご紹介しましょう。
鍛冶も狙撃も一流のスナイパー・富岡藤太郎
鉄砲作りで名高い近江の国友衆は、射撃でも優秀な人材を輩出しました。
常に鉄砲を取り扱うため、自然と技術が上がったのです。
そのなかでも鍛冶と射撃の両方で優秀だった人物に、富岡藤太郎という男がいます。
信長に寝返った宮部継潤が、国友城に侵攻してきた時のことです。宮部らの勢いは圧倒的で戦況は劣勢でした。
しかし果敢に攻める分宮部は突出しており、藤太郎は鉄砲でもって足を狙撃します。宮部は吹き飛んで落馬、足から大量に出血して一時後退します。
一弾で戦況を変えた藤太郎に城主は感激し、娘と結婚させたそうです。
この抜群の才能を買われ、藤太郎は秀吉暗殺の大任を与えられます。
元亀2年5月、藤太郎は琵琶湖湖畔(山沿いという説も)を通る秀吉を、木陰に潜んで待ち構えました。
宮部と同じように葬るつもりが、弾丸はなぜかそれて秀吉は無傷でした。
ほうほうの体で藤太郎は逃げ出します。ここで、秀吉と信長の違いが出てきます。
信長は狙撃者を絶対に許さず執拗に捜索しました。前述の通り、信長を狙撃した杉谷善住坊は残酷に処刑され、伊賀の城戸弥左衛門は厳しい追跡を受け自害しました。
しかし藤太郎は無事でした。
それどころか、秀吉勢力下に入るとそのまま職人として仕事を続けたのです。
歴史を変えようとした一弾!中畠晴時
小田原征伐後、秀吉は奥州仕置を行います。
伊達政宗はぎりぎりで屈服するも、他に奥州大名が残っていました。
陸奥の結城氏は政宗を通して関係改善を試みるも、許されず改易となります。結城氏の庶流にあたる中畠氏も追放、当主の晴辰は落ち武者狩りに殺され離散します。
その中で、一人当主の息子の晴時は復讐の炎を燃やしていました。
ですが、晴時はもはやただの落ち武者です。手勢もありません。ここで晴時は思い立って鉄砲で復讐戦を企図します。
秀吉が会津に向かっていると知ると、木々の生い茂る勢至堂峠の馬尾滝で待ち伏せました。
しかし、またしても秀吉は悪運の強い男でした。
復讐の弾丸は秀吉の駕籠からそれ、かすり傷も負わせませんでした。
晴時は逃亡し、後に陸奥で九戸政実が乱を起こした際に参加して討ち死にしたとされます。
幸い子孫が水戸藩に存続しており、一家断絶とまではなりませんでした。
芭蕉と親交のあった俳人、相楽等躬は晴時の子孫と言われています。
秀吉を唯一手負いにした男・大宮景連
ここまでのスナイパーはすべて失敗です。
しかし成功しかけた人物もいます。それが大宮景連です。
永禄10(1567)年、信長は伊勢に兵を進めます。当時、まだ木下藤吉郎であった秀吉は、7万の軍勢で現地の阿坂城を包囲しました。
城主代の大宮入道は降伏勧告を拒否し、徹底抗戦を続けます。
特に勇名を誇る息子の景連は、弓の技術も抜群でした。寄せ手を次々に狙撃しては混乱に陥れます。
業を煮やした秀吉が前線を叱咤してまわると、その姿が景連の視野に入りました。
敵大将に狙いを定めた矢は迅速で正確、見事に命中して左太腿(左肘とも)を貫きます。
たまらず秀吉は後方に撤退しました。
頑強な抵抗と凄腕の狙撃手に、秀吉は力攻めを放棄します。
調略で城内に内通者を作り出すと、火薬を水浸しにさせ、頃合を見計らって城内に手引きさせます。
城は大混乱になり、その好機を逃さず秀吉は総攻撃で城を陥落させたのでした。
それでも、大宮景連の狙撃は秀吉に人生唯一の矢傷を負わせました。
命中箇所が違っていれば、間違いなく日本史は変わっていたでしょう。