永禄元(1558)年、織田信長は尾張統一を完成すべく、尾張上四郡の岩倉織田氏との戦いに臨みます。
戦況は一進一退でしたが、犬山城の信清の援軍で敵の総大将・信賢は総崩れになります。
信長側は追撃戦に移りますが、その中に信長の鉄砲師範を務める橋本一巴がいました。
一巴は敵側に林弥七郎という男を見つけます。弥七郎は近郷の浅野村出身で、世に弓の達人として知られる武芸者でした。
一巴も砲術にかけては名人として天下に鳴り響いています。
この飛び道具の名人二人、知らぬ仲ではなかったのですが、場所が場所です。
一巴は「自分と勝負しろ」と決闘を挑みます。弥七郎も臆せずに「承知した」と弓を持ち直しました。
戦の場で、鉄砲と弓の名人の一騎打ちが始まったのです。
当時の鉄砲のこと
ここまでの流れだと「弥七郎は無茶だ!」と思う人もいるかもしれません。「いくら弓の達人でも鉄砲にかなうわけない」と。
しかし、これは現代の視点です。
われわれは現代の改良された高性能の銃のイメージで見てしまっているのです。
正しく理解するには当時の火縄銃の性能を知る必要があります。
火縄銃の一番の特徴は「砲身の内部に施条が無い」滑空銃な点です。
「施条」とは発射された弾丸に回転を加えるための、らせん状の刻みのことです。
実はこの「施条=ライフル」こそが鉄砲史で重要な革命でもあり、小銃=ライフルの名前の元でもあります。
施条で回転が加わると弾道が安定し、射程距離・精度・威力も飛躍的に増します。弾丸も回転が加わるよう刻みが入り、飛びやすいように椎の実型の先の尖ったタイプが生まれました。
火縄銃はライフリングがないため射程距離は短く(ライフル銃との射程距離差は3~6倍)威力や命中精度も落ちます。長距離だと風に流されやすいレベルでした。
欧米の歴史映画などで、長い棒を入れてごしごしとこする姿を見たことがある人もいるでしょう。あのように筒先から弾丸と火薬などを入れたり、射つ度に補充の必要があり、射撃後に内部のススやゴミを掃除もせねばなりません。
筒先を下に傾けると弾がポロっと落ちてしまうこともあったそうです。装填に一~二分ほどかかるのでその間に敵に突っ込まれる弱みもありました。
つまり当時では欠陥が多く無敵の武器とまではとまでいきません。
一騎射ちで弥七郎が挑戦を受けてたっても、そこまで無茶ではないわけですね。
鉄砲VS弓、勝負の行方は?
それでは実際の勝負はどうだったでしょう?
弥七郎は走りつつ追いすがってきた一巴に向かい、振り向きざまに神速の矢を射込みます。
しかし、一巴も鉄砲に二つ玉(文字通り弾丸を二つ装填すること。確実に相手を仕留めたい時に推奨された方法。信長が杉谷善住坊に狙撃された時にも使われた)を装填し終わっていて、弥七郎が振り向くと同時に引き金を引きました。
轟音の中で影が倒れます。
結果は両者の実力を証明するものでした。
弥七郎の矢は、一巴の脇下を貫いて絶命させていました。同時に一巴の弾丸も弥七郎に命中して、深手を負わせています。
ただし弥七郎にはまだ息があり、信長の小姓に首を取られそうになると、刀で斬りつけて抵抗したそうです(結局は組み伏せられて首を奪われました)。
その結果は・・・
結果は相討ちでした。ともに致命傷レベルです。
一方が圧倒的優位は占めておらず、弓がやや上回ったとの見方もできます。
「遠距離から射てば?」という意見もあるかもしれませんが、火縄銃の有効射程距離は弓と大して変わりません。
下手にはずすと装填の合間に二の矢が飛んでくる危険性もあります。ぎりぎりまで距離を詰めたのも、そのあたりに理由があったと思われます。
このような鉄砲と弓の一騎射ちという珍しい例からも、当時の鉄砲の世界がうかがえますね。
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