明治元年(1868)9月22日、会津戦争において会津藩が新政府軍に降伏しました。
新政府軍によって朝敵とされた会津藩に対し、新政府軍の攻撃は激しいものでした。この会津戦線では、白虎隊や娘子軍の悲劇など痛ましい話が多いのですが、唯一痛快な話として残っているのが、彼岸獅子による入城作戦でした。
この作戦を指揮したのは、若き家老・山川浩(当時は大蔵。後に浩と改名)です。
日光口での奮戦
山川浩は、かつて幕府の使者とともにロシアに渡航したこともある人物でした。
この時に、西洋の力を知り、攘夷が無謀であると悟ったとされます。そのため、いち早く軍の近代化を進め、会津藩兵を鍛えていました。
その山川が指揮を採ったのが、日光口でした。この時、まだ23歳でしたが、日光口を守備する会津藩兵は優秀かつ士気高く、新政府軍をたびたび撃退します。
日光口の新政府軍を指揮していたのは、土佐の猛将・谷干城でした。干城は浩の有能さに舌を巻き、日光口の戦いは膠着します。
しかし、別の方向から新政府軍が会津領内に攻め入り、鶴ヶ城は包囲されてしまいました。この時、白虎隊の悲劇が起こっています。
日光口で指揮を採る山川にも帰城命令が出され、日光口から撤退せざるを得なくなったのです。
山川が率いる軍が鶴ヶ城近くまで来ると、十重二十重と新政府軍が城を包囲していました。下手に打って出れば、全滅の惧れがあります。
しかし、素早く開門してもらわねば、新政府軍が一緒に城内になだれ込み、一気に落城する可能性もあります。
敵に襲われず味方に自分たちの存在を知らせる方法など皆無と思われた時、山川は奇策を思いつきました。それが、「彼岸獅子入城作戦」です。
彼岸獅子入城作戦
山川は軍勢の先頭に、会津の伝統芸能であった彼岸獅子を立てて、城に向けて躍らせながら進みます。新政府軍は意味がわからず傍観しますが、城内には味方であることが充分に伝わります。城門を開けてもらい、一気に入城を果たしました。
この機知に富んだ策略は敵味方から賞賛され、会津に山川浩ありと知れ渡ったのです。
ライバルから陸軍に招かれた山川
結局、会津は戦いに敗れます。その後、領土を失った会津藩士たちは現在の青森・斗南藩に流されました。
この斗南藩の参事として、山川は開拓の指揮を取ることになります。廃藩置県後は青森県に出仕していましたが、ある日、山川は陸軍に招かれます。声をかけたのは、かつて日光で戦った谷干城でした。谷は山川の指揮官としての能力を買ったのです。
そして、山川は西南戦争において熊本城救援隊を指揮します。西郷軍による熊本城包囲網を見事に突破し、熊本城を守る干城を助け、恩を返したのです。
また、戊辰戦争の敵討ちとして西南戦争に臨み、「薩摩人 みよや東の 丈夫が 提げ佩く太刀の 利きか鈍きか」という歌を残しています。
会津藩の汚名を雪ぐ
山川はその後、東京高等師範学校(筑波大学の前身)の校長など教育界でも重きをなしていきます。しかし、会津出身であることを忘れず、会津人としての誇りを抱き続けます。
山川が願ったのは、会津藩の朝敵の汚名を雪ぐことでした。彼は病身に鞭打って、『京都守護職始末』という本を記します。この中で、当時会津藩主だった松平容保が、孝明天皇から御製を入れた御宸翰を賜ったことを初めて世に明かしました。会津は朝敵ではなかったと世間に訴えたのです。
明治31(1898)年2月、この本の完成を見ることなく、山川はこの世を去ります。その後、東大総長を務めた弟の健次郎らの手によって、『京都守護職始末』が刊行され、会津藩の復権につながっていったのです。