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【幕末最強同士の戦い!?】近代武器で激突した庄内藩 VS 佐賀藩武雄部隊

明治元年9月26日(1868年11月10日)は、東北戦争において新政府軍に最後まで抗戦した庄内藩が降伏した日です。
この庄内藩は一説には幕末最強とまで言われた藩で、新政府軍を大いに悩ませる存在でした。

戊辰戦争で朝敵とされた庄内藩

慶応3年12月25日(1868年1月19日)、江戸市中取締役を拝命していた庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしました。
理由は薩摩藩が幕府を挑発するために、藩士や浪人を使って江戸市中で放火や略奪・暴行を行っていたからです。これが戊辰戦争のきっかけとなり、庄内藩は朝敵とされました。

江戸を支配下においた新政府軍は、奥羽諸藩に会津藩庄内藩の征討令を発します。これに対して、奥羽諸藩は仙台藩を中心に奥羽越列藩同盟を形成し新政府軍と対立、東北戦争に突入していくのです。

奥羽越列藩同盟の旗
奥羽越列藩同盟の旗

開戦当初、庄内藩は兵を白河に出す予定でした。しかし、列藩同盟側だった秋田藩が寝返り、新政府軍を領内に入れてしまいます。背後に出現した敵に備えるため、庄内藩は急きょ、秋田藩に進軍することになったのです。

庄内藩は、白河に向かうはずだった第一大隊、第二大隊を秋田に進軍させます。
7月11日に庄内を目指す秋田藩兵と新政府軍を撃退すると、13日には新政府に靡いた新庄藩を攻略、そのまま秋田藩領に攻め入りました。8月11日には秋田南部の要害・横手城を落城させ、秋田城間近まで攻め込むのです。

庄内藩の強さの秘密

庄内藩では、主力部隊に当時最新式のエンフィールド銃やスナイドル銃、スペンサー銃などを標準装備していました。ちなみにスペンサー銃は大河ドラマ「八重の桜」で八重が手にしていた銃です。

スペンサー銃
スペンサー銃

こうした装備を可能にしたのが、当時日本一の大地主と言われた豪商・本間家の財力でした。本間家の財力を使用し、庄内藩は短期間で軍の近代化に成功したのです。
この主力を率いるは、破軍星の旗を翻した第二大隊長・酒井了恒。新政府軍から『鬼玄蕃』と恐れられた26歳の若き将でした。

『鬼玄蕃』と呼ばれた酒井了恒
『鬼玄蕃』と呼ばれた酒井了恒

士気の高い庄内藩の前に、秋田藩主は死を覚悟したとも言われています。

新政府軍の切り札・佐賀藩武雄部隊と激突

庄内藩の強さを知った新政府軍も素早く対応します。当時、御親兵として明治天皇の警護に当たっていた佐賀藩支藩の武雄領兵を秋田に送り込んだのです。
この武雄領兵は、新政府の中でも近代化が最も進んだ佐賀藩の主力部隊で、率いる鍋島茂昌は、佐賀藩の軍事責任者でした。新政府側も切り札を投入して、庄内藩を抑えにかかります。

幕府側最強の庄内藩と、新政府軍の切り札・佐賀藩武雄部隊は、雄物川を挟んで激突します。
鬼玄蕃ら率いる庄内藩兵の進撃を、武雄部隊を主力とする新政府軍が食い止める一進一退の攻防が、約1か月に渡って繰り広げられました。秋田藩兵にも佐賀藩の新式銃が与えられ、武雄部隊の持ち込んだアームストロング砲が炸裂するなど、双方が最新式の銃火器を用いた近代戦争さながらの激戦が展開されたのです。

上野戦争で使用されたと言われるアームストロング砲
上野戦争で使用されたと言われるアームストロング砲

会津藩の降伏

秋田戦線が膠着する中、東北戦争の局面は大きく動いたのです。9月に入って、米沢・仙台、さらには会津が降伏する事態に至り、庄内藩は孤立します。そして9月26日、ついに庄内藩も降伏。庄内藩にとっては連戦連勝のまま降伏という形で、東北戦争は終結したのです。

薩摩藩・西郷隆盛の寛大な処置

庄内藩の戦後処理を請け負ったのは因縁の薩摩藩でした。どのような過酷な処理をされるか恐れていた庄内藩士でしたが、総責任者の西郷隆盛は庄内藩のもつ武器を把握しただけで、その後の藩内の治安維持などを全て庄内藩士に任せました。
この処置に感動した庄内藩の菅実秀は、西郷隆盛を尊敬し、彼の言葉や思想などを記した「南洲翁遺訓」を書き上げました。この書物があったからこそ、西郷の思想が現代にまで残っているのです。

(黒武者 因幡)

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