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安政の大獄、桜田門外の変・・・井伊直弼ってどんな人?

安政の大獄、桜田門外の変・・・井伊直弼ってどんな人?

井伊直弼というと、一般的には悪役のイメージが強いですよね。
強大な権力を持ち、多くの尊王攘夷志士を粛清した・・・といった感じでしょうか。
はたして本当の直弼とはどんな人物だったのでしょう。安政の大獄、桜田門外の変についてはもちろん、彼の人物像にスポットライトを当ててご紹介したいと思います。

直弼といえば…3分でわかる「安政の大獄」と「桜田門外の変」

ペリー以降、外国船が来航するようになると、幕府は欧米列強への危機意識を高めていきました。それに伴い日米和親条約が結ばれ、そして安政5(1858)年には日米修好通商条約が締結されることになったのです。しかしこれらは日本にとっては実に不利な条約でした。

加えて、幕府は12代将軍・家慶の死後に後継者問題にさらされており、一橋慶喜を推す水戸派と徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の対立が激化します。
そんな状況で、南紀派の直弼は大老に就任し、次の将軍を慶福に定めたのです。
これには水戸派の反発は高まりました。加えて直弼は、日米修好通商条約を天皇の許諾(勅許)なしに締結することにしたのです。

とはいっても、元来直弼は勅許なしの条約締結には反対だったそうです。ただ、混乱する幕府の内情と時代の流れの速さがそれを許しませんでした。孝明天皇が超・攘夷派だったので、勅許を得るのが難しかったのです。

様々な状況があったとはいえ、直弼を糾弾する声は高まり、水戸派を中心とした尊王攘夷一派は天皇に働きかけて幕府を非難する密勅まで出させました。

朝廷が政治に口出しするということになり、直弼はやむなく厳しい手に打って出ることとなったのです。その結果、吉田松陰をはじめ多くの志士を投獄・処刑し、水戸派の重鎮を謹慎処分にしました。

「安政の大獄で処刑された吉田松陰」
「安政の大獄で処刑された吉田松陰」

連座した者は100人以上にのぼりました。これが安政の大獄です。
直弼はこれで大きな恨みを買い、孤立を深めていくことになるのです。

そして安政7(1860)年3月の大雪の日のこと。
水戸浪士17人と薩摩藩士1人が、江戸城桜田門外で彦根藩の行列に襲いかかりました。

「安政五戌午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」
「安政五戌午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」

駕籠に乗っていた直弼は狙撃され、引き出されて首を刎ねられたのです。これが「桜田門外の変」です。
事変の一部始終を見ていた水戸藩士によると、襲撃開始から直弼殺戮まではわずか十数分の出来事だったそう。

事件後、幕府側は直弼の暗殺を隠します。それは井伊家の御家断絶や、水戸藩との争乱の激化を防ぐための配慮でした。
表向きにはしばらく闘病した後に亡くなったとされたため、井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑では、命日が「三月二十八日」と書かれているのです。

以降、水戸と彦根の間にはわだかまりが生まれましたが、明治100年を機に親善都市となり和解の道を進むことになりました。

直弼の人柄

井伊直弼。上部に直弼自筆と言われる和歌が書きこまれている。
井伊直弼。上部に直弼自筆と言われる和歌が書きこまれている。

文化12(1815)年10月29日、直弼は彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれました。兄弟も多く庶子だったため世継ぎとなる可能性は低く、部屋住みの身となった彼は「埋木舎」と名付けた邸宅で学問や茶道、和歌、居合などに励んで暮らしました。茶人としての顔もあり、一派を確立しています。

しかし藩主となった兄の後継ぎが没し、直弼にその座が回ってきたのです。
藩主となった直弼は藩政を改革し、名君と呼ばれました。藩主になってすぐ、藩が蓄えた15万両を領民に分配したのです。
安政の大獄で処刑された吉田松陰でさえ、兄への手紙に「直弼は憐みのある名君だ」と書いているほどなんですよ。

安政の大獄後は、自分に何かが起きると予測していたようです。
前もって戒名を考えて位牌を作り、菩提寺である清凉寺へ納めていました。その時一緒に納めた和歌には、「大老就任後は難問ばかりだったが、国の平和を願い尽力してきたのだから悔いはない」という意味が込められています。

直弼の先祖と子孫

「井伊直政」
「井伊直政」

井伊という名字の通り、直弼の先祖は徳川家康の重臣にして赤備えの猛将・井伊直政です。ということは、あの女城主・井伊直虎もご先祖になるわけですね。

直弼の曾孫は彦根市長となった井伊直愛氏で、現在の井伊家当主は直愛氏の孫娘と結婚した直岳氏となっています。彦根市立彦根城博物館の館長をなさっていますよ。

ちなみに直弼は、別れた女性へのラブレターなんてものも残しています。意外と情熱的な一面もあったんですね。
安政の大獄での悪いイメージが強いですが、本当はもっと親しみを感じられる人物だったはずです。

(xiao)

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