先日の大河ドラマ「真田丸」で、信繁に木札を渡し自己アピールをしていた塙団右衛門。「ばんだんえもん」という名前を聞いて「ドラえもんみたい・・・」と思ったのはさておき(笑)、塙団右衛門は大坂の陣で鮮烈に輝きを放つ存在でした。不遇と流浪の時代を経て、最後に花火のように散った彼の生涯を見ていきたいと思います。
けなされたら、主君だって許さねえ!
塙団右衛門の本名は塙直之と言います。団右衛門の名は軍記物や講談で有名になったようですね。
彼の出自は不明ですが、猟夫から織田信長に取り立てられたとも、北条家の家臣だったとも言われています。その後は浪人となっていましたが、豊臣秀吉に仕えた加藤嘉明に召し抱えられ、朝鮮出兵で大活躍を見せました。加藤家の長大な旗印(1.3m×10mともいう)を背負って戦場を走り回り武功を挙げ、敵の船をわずか8人で乗っ取ったりするなど目覚ましい功績がありました。そのおかげで鉄砲大将に出世します。
ところが、関ヶ原の戦いで足軽を勝手に出撃させたことで主君の嘉明を怒らせてしまいます。
嘉明に「お前には大将の役目など務まらん!」と罵られた団右衛門は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鷗」という漢詩を読んで書院の床に貼りつけ、出奔してしまったのでした。
ちなみにこの漢詩、「江南という小さな水(つまり加藤嘉明)に留まることなく、カモメ(団右衛門のこと)は天高く飛ぶのだ」ということで、強烈に主君を批判しているわけですね。
さらに怒った嘉明は、改易したものが他家に召し抱えられないようにする「奉公構」を出しています。黒田長政が後藤又兵衛に出したのと同じものですね。
流れ流れて行き着く先は…坊さん!?
浪人となった団右衛門は、小早川秀秋に鉄砲大将として召し抱えられました。しかし秀秋はすぐに死去し、再び団右衛門は浪人の身となります。
次は徳川家康の子で勇猛として知られた松平忠吉に仕えますが、またも主は亡くなってしまいます。そして福島正則に拾われますが、嘉明が奉公構をたてに抗議したため罷免されてしまいました。
仕える場所をなくした団右衛門は、妙心寺という寺に辿り着き、やがて仏門に入り「鉄牛」と称します。
しかし、この男が大人しくしているわけもなく・・・。佩刀して托鉢に回るなんてことをしでかして、檀家から不興を買ってしまったのでした。
一花咲かせよう!大坂の陣
慶長9(1614)年、大坂冬の陣が始まると、団右衛門は還俗し豊臣方へ参上します。大功を立てれば出世できそうだという理由でした。ここで彼は夜襲を提案し、蜂須賀至鎮の陣を蹴散らす武功を立てました。これが本町橋の夜戦で、彼はこの時「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」という木札をばらまいたといいます。また、自ら切り込むことなく指揮に徹し、大将の器があると示したのでした。
これによって団右衛門の望みどおり、彼の名は天下に知れ渡ったのです。
夏の陣では、樫井の戦いにおいて浅野長晟と戦いました。先陣を任された団右衛門ですが、一番槍を日頃から仲の悪い岡部大学と争い、突出しすぎて他との連携が取れなくなってしまいます。そのまま彼は討死することとなってしまいました。一説には、矢を受け落馬し首を取られたといいます。
死の間際、彼は懐紙に辞世の漢詩を詠んだとも言われています。加藤嘉明に向けた漢詩といい、彼には文才もあったのかもしれませんね。
一方、生還した岡部は団右衛門を見殺しにしたと批判を受け、戦後は名を変えて隠棲してしまったそうですよ。
奉公構を出されても召し抱える大名がいたのは、団右衛門が優れた人材だったことの証だと思います。岡部大学が非難されたのも、団右衛門がいかに人々に好かれていたかわかります。憎めない、愛されキャラだったのかもしれませんね。
(xiao)
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