「真田丸」に登場する織田有楽斎、皆さんはどんな印象を持たれていますか?劇中では内通者ではないかという描写のため、ちょっとイラッとしてしまう方も多いのではないでしょうか。
ですがちょっとお待ちください。彼が本当はどんな人物だったのか、もう少し掘り下げてみましょう。意外な一面が見えてくるかもしれません。
織田信長の弟だけど、戦は…?
織田有楽斎は、天文16(1547)年に織田信秀の十一男、信長の弟として生まれました。出家前の名は長益といいます。
信長の嫡男・信忠に仕えていましたが、本能寺の変で信忠は自刃。長益はというと、安土を経て岐阜まで逃げ延びました。
これが彼の評判を著しく落とすことになってしまったようです。当時、京の人々は「織田の源五(長益のこと)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五・・・」などと歌って皮肉ったと言われています。
その後長益は織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは信雄と共に徳川方となり、豊臣秀吉との講和を仲介しました。また、滝川一益や佐々成政などの降伏にも関わっています。織田ブランドがあったことは言うまでもないでしょうが、彼自身は交渉ごとに長けていたのかもしれませんね。
豊臣家に仕えた後半生
信雄が小田原征伐後に国替えを拒否して改易されると、長益は出家して有楽斎と号し、秀吉の御伽衆となりました。御伽衆とは話し相手のことですから、やはり彼は機転の利く頭の良い人物だったのでしょう。
さて、そうして豊臣家に仕えていた有楽斎ですが、関ヶ原の戦いでは東軍に属します。しかも武功を挙げて、大和国に3万2千石を拝領しました。それでも、戦後は豊臣家に出仕を続けます。
大坂の陣においては、有楽斎は穏健派の筆頭でした。一方、強硬派の先鋒である嫡男・頼長は問題児で、仮病で出陣しなかったり、自分を司令官にしろと迫ったりしたようです。こんな息子がいては有楽斎の立場も悪くなりますよね・・・。やがて自身の力及ばず夏の陣開戦の気運が高まると、大坂城を退去し京都へ隠棲したのでした。
隠棲後の彼は茶道三昧の日々を送り、権勢とは無縁だったようです。
淀殿・秀頼母子を思う叔父心
関ヶ原はあくまで石田三成が敵役でしたから、秀頼のために戦うという意味で東軍に属したのかもしれません。加えて、秀頼の母・淀殿は有楽斎にとっては姪にあたりました。夭逝した鶴松の出産には立ち会ったほどの仲です。秀頼もまた可愛い存在だったでしょう。ですから戦後も大坂城に残り補佐を続けたと思われます。
家康との和睦を進めたせいで内通説もありますが、これは有楽斎なりに豊臣家を思ってのことだったのではないでしょうか。秀頼が一大名になっても、何とか家康とのルートを作って生かしてやりたいという思いによるのではと筆者は考えています。
茶人・有楽斎の影響は地名にまで及ぶ!?
ところで、東京に「有楽町」という地名があります。
関ヶ原の後、有楽斎がこの付近に屋敷を拝領し、その跡地が有楽原と呼ばれたことから、明治時代に有楽町と名付けられたとも言われています。
有楽斎は茶人として超一流で、千利休の高弟であり、有楽流の創始者でもありました。彼が作った茶室・如庵は国宝となり、愛知県犬山市に保存されています。
茶道や芸能の世界での彼は、武将としての彼よりもはるかに高名でした。
武将というよりも風流人として一流だった有楽斎。織田という名とのギャップはありますが、淀殿にとっては、何とか秀頼の命を救おうと尽力してくれた優しい叔父だったのかもしれません。織田の名前、重いですね・・・。
(xiao)
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