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【 東京遷都の遠因?】 禁門の変で京都を飲み込んだ大火「どんどん焼け」

【 東京遷都の遠因?】 禁門の変で京都を飲み込んだ大火「どんどん焼け」

京都には現在でも「町家」と呼ばれる昔ながら風情漂う住宅や商家が多く立ち並んでいます。しかし、それらのほとんどが明治以降に建築されたものであることをご存じでしょうか?

京都中心部を焼き尽くした「どんどん焼け」

首都京都の歴史を変える舞台となった蛤御門

元治元(1864)年7月19日、長州藩勢力が京都で市街戦を繰り広げた禁門の変(蛤御門の変)が起きました。この禁門の変に伴う大火「どんどん焼け(元治の大火、鉄砲焼けとも)」で、御所のある一条から七条通りの東本願寺にいたるまで広いエリア、まさに京都の中心市街地にあった建築物はほとんどが焼失してしまったのです。
戦いは1日で終わるものの火は3日間にわたって燃え続け、洛中にあった全世帯の半数強に当たる約2万7千世帯を焼失。御所や二条城などの主要な施設、鴨川対岸の祇園エリアなどは無事でしたが、犠牲者と負傷者を合わせると1000人を超えるまさに未曽有の大惨事でした。

火災の原因については長年、禁門の変での戦闘に敗れた長州藩兵が洛中から撤退する際、三条河原町にあった長州藩邸に放った火が燃え広がったためとされてきました。しかし、当時の文献などから、薩摩藩や会津藩による砲撃で火災が発生したとも、民家に逃げ込んだ敗残兵たちをあぶりだすため新選組などが意図的に火を放ったことが原因ともいわれています。

大火災で息を吹き返した長州藩

「どんどん焼けは祇園祭にも大きな被害を及ぼした」

いずれにせよ、戦闘による混乱状態の中、さまざまな要因が重なったことで手の付けられない大火災になったというのが実情のようです。この時、逃亡する長州藩兵を匿っていないにも関わらず、勤王派に協力的な公家の屋敷や寺社も砲撃を受けたといいます。幕府方にとっては勤王派勢力を徹底的に掃討し、京都政局の主導権を掌握していることを示す絶好のチャンスだったのでしょう。
しかし、大火の〝被災者〟となってしまった京都の町衆にとっては迷惑この上ない出来事でした。市中は荒廃し、祇園祭の山鉾も多くが焼失してしまったため翌年は中止せざるを得なくなりました。幕府は米を払い下げるなどの救済措置を行いましたが、会津藩や新選組が火を放ったとの噂が広まったこともあり、町衆は不満を募らせました。このことが結果的に、禁門の変で大打撃を受けた長州藩が息を吹き返すきっかけになったともいえます。

首都機能は京都から東京へ

「江戸へ行幸する明治天皇」

大火で都市機能が大きく低下した京都とは対照的に、江戸は勝海舟らの奔走で新政府軍と幕府方の全面衝突が回避されました。上野戦争という局地戦はあったものの、市街地全域は戦火を免れることができました。当時の江戸は人口100万人を超える世界有数の大都市であり、新政府の官舎として使える建物も数多くあったため、新政府は早い段階から江戸に首都機能を置く構想を固めていました。過激な勤王派と結びついた保守的な公家衆から、距離を置きたかったという思惑もあったようです。

「画題は『本能寺合戦の図』となっているが、新政府軍と旧幕府軍(彰義隊)が戦った上野戦争が描かれている」

皇室になじみの薄い関東の人心を掌握する狙いもあって、明治元(1868)年と明治2(1869)年に明治天皇は「東京」と改称した江戸へ行幸。2回目の行幸では、京都に戻らず、皇居に定めた江戸城にとどまります。これを機に首都機能は相次いで京都から東京へ移転。次の首都には京都がなるものと考えていた公家衆たちが反発する間もなく、遷都(奠都とも)という一大事業が成し遂げられてしまったのです。

もし勝海舟や山岡鉄舟、西郷隆盛たちの交渉が失敗し、江戸が戦火に包まれていたら…。江戸もどんどん焼け後の京都のように荒廃し、遷都先には大阪か名古屋が選ばれ、近代日本の在り様はずいぶん変わったものになったかもしれません。そういう意味で幕末の京都と江戸はその後の明暗が大きく分かれたといえます。

(黄老師)

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