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【 介錯の後に○○する豪胆さ 】新選組にいた弓の天才・安藤早太郎

【 介錯の後に○○する豪胆さ 】新選組にいた弓の天才・安藤早太郎

新選組の安藤早太郎を知っている人はかなりの新選組通でしょう。何が凄いかというと、その射術の腕と豪胆な性格です。あまり知られていない新選組隊士・安藤早太郎にまつわるエピソードをご紹介しましょう。

「通し矢」で1万5000本射って日本一に

早太郎は三河挙母藩(現在の愛知県豊田市)の御典医の家に生まれ、子供の頃から弓術に抜群の才能を見せました。
元服時に免許皆伝、総目録の授与、別の流派でもすぐに相伝を受け、神社に流鏑馬を奉納するエースに選ばれます。

藩主に東大寺での「通し矢」の射手として推挙されると、そこでも記録を作ります。
一昼夜かけてお堂軒先を射通す「大矢数」で前代未聞の総矢数1万1500本達成、うち8685本を射通す日本最高記録を出したのです。藩主からも絶賛され、家老並の俸禄を受けました。

しかしこれで驕ってしまったか、のちに早太郎は「慢心」の罪で蟄居に追い込まれ脱藩します。
京の知恩院に身を寄せ一時は虚無僧に身をやつしていたとされます。

ここからちょうど隊士を募集していた壬生浪士(新選組の前身)に入ることになったのです。

不遇を経て新選組に入隊

「新選組発祥の地・八木家(京都府中京区)」

早太郎は文久3(1863)年の5月までには入隊していたようです。なぜなら同月25日提出の上書に名があるからです。
江戸に居た時に関係者と面識があったという説もあります。
長州藩勢力が京都で武力衝突を起こした「禁門の変」では、出動して南門を守っていたとされます。古参なので新選組では「副長助勤」という幹部クラスにもなりました。

親しみやすく豪快な人間像

驚異的な弓技と「慢心」で叩かれた早太郎ですが、近寄り難い猛者という感じではなかったようです。諸説ありますが早太郎の性格を表すこんなエピソードもあるのです。

屯所の家主の話によると、早太郎は愛嬌があって親しみやすく、よく遊びにきては酒を飲んだり女と冗談を言い合ったりしていたそうです。

ある日いつものように早太郎が遊びにくると、女たちから「餅つきを手伝って」と頼まれました。早太郎も「親戚に餅屋がいて、居候していた時手伝ったからうまいもんだぞ」と和気あいあい餅つきを手伝います。

すると、楽しそうに騒ぐ早太郎を見た別の隊士が、主人に「あいつ、よく手を洗いましたか」と聞きました。
なぜかと不思議がる主人に、その隊士はこう教えたそうです。
「今さっき切腹に立ち会って、あいつが介錯をしました。その足でふらっとこちらまでやってきたのですよ」
それを聞いて主人は仰天。今しがた人の首を落としてきたのに平然といつも通りに餅つきをしていたわけです。凄い胆力ですね・・・。

早太郎の弓技は役立ったのか?

しかし、残念ながら実戦で神業を見せたという記録は残っていないようです。新選組は屋内の討ち入りも多く、京の町中では弓は使い辛かったのでしょう。

そもそも早太郎が弓技の腕を買われて雇われたのかどうかはわかっていませんが、新選組は平隊士でも何か特技があれば「師範」になれたそうです。伊藤甲子太郎などは学問を見込まれ「文学師範」として水戸学を教えていました。
当時の新選組には砲術師範はいましたが、弓術師範に関する記録は残っていないようです。

ちなみに元隊士による近藤勇暗殺未遂事件でも、使用されたのは鉄砲でした。
飛び道具ではやはり最新の鉄砲の方が評価されていたのでしょうね。

一方で早太郎は虚無僧をやっていただけあって京の地理にも明るく、見張り部隊を積極的に引っ張って回っていたともいわれます。ですので、ひょっとして地理案内や隠密役も期待されていたのかもしれません。

池田屋事件でひっそり生涯を終える

「壬生寺には早太郎の墓や早太郎が介錯した野口健司らも合祀されています」

池田屋襲撃では裏庭の警護役として志士たちと戦うも、瀕死の重傷を負います。そしてその負傷がもとで、亡くなったと言われています。

新選組といえば、どうしても土方や沖田など主要メンバーばかりが注目されがち。
しかし、実際には最大で200名もの隊士たちいたのです。そのなかに、安藤早太郎という弓の天才がいたことも覚えておいてはいかがでしょうか。

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