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【「明治の父」と言われた幕末の天才 】佐幕派の重鎮・小栗忠順

2017年は大政奉還から150年ということもあり、改めて幕末に活躍した人物に注目が集まっています。ですが、どちらかというと幕府側の人物にスポットライトがあたるのは少ないですよね。しかし、幕府側にも有能な人材がいたことは事実。その筆頭が小栗上野介こと小栗忠順ではないでしょうか。彼はどんな人物だったのか、その功績やエピソードとともに改めて見直していきましょう。

渡米から見識を広めた忠順

「直心影流免許皆伝の腕前も持っていた忠順」

旗本の子として文政10(1827)年に生まれた小栗忠順。やんちゃな少年時代を経て、文武両道の青年へと成長します。
安政7(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、正使の新見正興と共にアメリカの軍艦ポーハタン号に乗船しワシントンD.C.へと向かいます。この時、護衛の名目で咸臨丸も派遣されており、そこには勝海舟やジョン万次郎、福澤諭吉らも乗り込んでいました。

左から副使・村垣範正、正使・新見正興、目付・小栗忠順(1860年)

小栗はペリー来航直後から外国船への詰警備役に就いていたため、外国人相手の交渉でも臆することはなく、とても重宝されたようです。フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直し交渉を行い、その後ワシントン海軍工廠の視察などを果たすと、そのまま世界一周の航路を辿って日本へと帰国しました。この旅が、彼の見識を広めたことは言うまでもありません。

横須賀製鉄所の建設を進言

アメリカから帰国した小栗は、その功により外国奉行に任ぜられ、内政と外交に関わるようになりました。その後は勘定奉行も務めますが、彼はこの時周囲を驚かせる提言をしたのです。それは、製鉄所を造ることでした。

ワシントンD.C.で海軍工廠を見学した小栗は、日本との技術力の差を痛感していました。そして日本も欧米に後れを取らないよう、近代化への投資として製鉄所の建設を進言したのです。
当初幕府の財政は厳しく、反対の声が挙がりました。しかし将軍・徳川家茂が小栗の案を容れたため、横須賀製鉄所が建設されることになったのです。小栗はフランスの協力を取り付け、経済や軍事面でフランスに接近を図るなど海外との接点づくりに奔走しました。横須賀製鉄所の建設に貢献したフランス人技師・ヴェルニーと小栗の胸像が、横須賀のヴェルニー公園に並んでいます。

ヴェルニー公園にある、小栗とヴェルニーの胸像

崩れゆく幕府を献身的に支えた小栗ですが、聡明な彼が幕府の終焉を予想していなかったとは考えにくいことです。彼にとっては、長い目で見ればこうした事業が将来の日本という国にプラスだと考えていたのではないかと思います。

罷免と非業の死

そして慶応3(1867)年、大政奉還が行われ、戊辰戦争に突入します。
小栗は評定の席で徹底抗戦を主張しますが、結局徳川慶喜は恭順策を取りました。

この時小栗が主張したのは、新政府軍が箱根関内に入ったら迎撃し、榎本武揚の艦隊を駿河湾に突入させて相手の後続を砲撃で足止めし、箱根で孤立した相手を殲滅するというものでした。相手指揮官・大村益次郎は後にこれを聞いて、「それをやられていたら今ごろ我々はこの世にいなかっただろう」と言っています。

翌年、小栗は罷免され上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市)の東善寺に移り住み隠居生活に入ります。しかし突然、そこに新政府軍がやって来ました。小栗と家臣は捕らわれ、取り調べもないまま処刑されてしまったのです。享年42歳でした。

「群馬県高崎市・東善寺にある小栗の像」
Ⓒググっとぐんま写真館

処刑の場で家臣が無実を叫ぶと、小栗はそれを制し、「私はこの世に未練はないが、母や妻など婦女子には寛容にお願いしたい」と言い残して首を差し出したそうです。

そのとき小栗の妻は妊娠中で、やがて園子という女の子を生みました。後に園子は親族にあたる大隈重信に引き取られ、幕末の政治家・矢野龍渓の弟の矢野貞雄を婿に迎えて小栗家を再興します。

元帥海軍大将・東郷平八郎は、後に貞雄とその子を招きこう言いました。
「日本海海戦で勝てたのは、(製鉄所と造船所を造った)小栗氏のおかげです」と。
小栗の見識の高さを「東洋のネルソン」が証明した瞬間でした。小栗の思いは、こうして後世に生かされていったのですね。

(xiao)

参照元:ググっとぐんま公式サイト

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