関ヶ原の戦いにおいて勝敗を決めたとも言われる、小早川秀秋の寝返り。しかし、その陰にはお膳立てをした人物がいました。それは福岡藩初代藩主の黒田長政。天才軍師・黒田官兵衛という偉大な父を持った長政は、どちらかというとその陰に隠れがち。しかし関ヶ原の戦いでは父にも劣らぬ活躍ぶりをみせました。その活躍ぶりや彼の人物像に、改めて迫ってみましょう。
軍師・黒田官兵衛の息子として
黒田長政は、黒田官兵衛の長男として永禄11(1568)年に生まれました。幼名は松寿丸と言い、織田信長や豊臣秀吉の元で人質として幼少期を過ごしています。官兵衛が敵の説得に失敗して捕らわれた際には、危うく長政も処刑されそうになっていますが、竹中半兵衛によって命を助けられました。
成長した長政は数々の戦いに参戦し、武功を挙げていきます。そして天正17(1589)年に家督を継ぎ、文禄・慶長の役では海を渡って朝鮮半島へ攻め込み、ここでも大きな戦功を挙げました。
こうした武功によって、長政は武断派に属するようになり、文治派の石田三成らとは対立を深めていきます。そのため、秀吉の死後には三成襲撃事件にも加わりました。
また、徳川家康に接近し、正室を離縁して家康の養女を新たな正室に迎えたりもしています。
関ヶ原での大活躍!
長政は主に武功で立身出世を果たしてきましたが、関ヶ原の戦いでは父譲りの謀略の才能も発揮します。
三成挙兵の報を聞いて動揺する豊臣恩顧の大名、特に福島正則に対しては彼が説得を行い、徳川方の東軍につくように仕向けたといわれています。また、西軍敗走の一因となった小早川秀秋の裏切りについて、内通を取り持ったのも長政でした。加えて、吉川広家の調略も行い、西軍の最大勢力とも言える毛利軍を戦場で動かさないことに成功したのです。つまり、長政が関ヶ原の勝敗に深く関わったということになるのですね。
もちろん、戦場における武将としての活躍にも目覚ましいものがありました。
三成の側近である猛将・島左近を破り、西軍の力を大きく削いだのも長政といわれています。
この活躍ぶりで、関ヶ原の戦いでは最大級の功労者として家康から御感状を賜ります。そして従来の12万5千石から一気に52万3千石へ、筑前国名島(福岡県福岡市)の領地を与えられて初代福岡藩主となったのでした。
偉大なる父との違い
大河ドラマにもなりましたが、父・官兵衛は、誰からも恐れられる知謀を持った人物でした。一方の長政は、どちらかというと武勇を誇る人物。対照的な親子だったんですね。
また、官兵衛はずっと天下を狙い続けていた野心家という説もあるほどですが、長政は徳川方についてからは忠誠を貫きました。長政が家康に謁見したときの話を父・官兵衛にしたところ、「なぜ家康の首を取らなかったのか」と悔しがった・・・なんて逸話もあります。きっと、真面目だったんでしょうね。
その真面目ぶりは家康による天下普請でも発揮されており、江戸城の天守台など城づくりに才能を発揮しています。
ちなみに、官兵衛によって取り立てられた武将・後藤又兵衛とはどうにも合わず、旧主の許しがない限り他家への奉公を禁ずる「奉公構」を出すほどでした。その一方で、月に3日、家来すべてが自由に意見を言える日を設けるなど、家中の風通しに気を配った点も見受けられました。クセのある父に比べて、より真っ当であろうとした姿勢が見られるのではないでしょうか。
有名な父がいたために、どうしても「黒田官兵衛の息子」という謳い文句が先に立ってしまいがちな黒田長政。しかし、関ヶ原の戦いでの活躍ぶりは、長政無くして東軍の勝利はなかったと言っても過言ではありません。今度は、彼を中心に関ヶ原の戦いを見直してみても面白そうですね。
(xiao)
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