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新連載!歴史作家・山村竜也の【 風雲!幕末維新伝 】第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ!」


明治維新150周年を迎える2018年に向け、歴人マガジンでは新連載がスタートします。その名も「風雲!幕末維新伝」。NHK大河ドラマ「新選組!」「龍馬伝」「八重の桜」、アニメ「活撃 刀剣乱舞」など、大ヒット作品の時代考証を担当した歴史作家・山村竜也先生が、幕末維新の志士や事件の知られざる真実を語ります。第1回はやはりこの人、坂本龍馬の暗殺に迫る!

坂本龍馬
(高知県立民俗歴史資料館蔵)

坂本龍馬は誰に暗殺されたのか

幕末の英雄・坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日に京都の近江屋で何者かに暗殺されました。犯人は、幕府方の京都見廻組今井信郎らと判明していますが、いくつかの問題点があり、そのため犯人はほかにいるのではないかとも考えられています。

今井信郎
(個人蔵)

確かに、京都見廻組よりも龍馬を殺害する強い動機を持っていたり、その死によって得をしたような者たちが複数存在します。名をあげれば、新選組薩摩藩土佐藩紀州藩…。彼らのうちの誰が犯人であっても不思議ではない状況にあったのです。

いったい真犯人は誰だったのでしょうか。実は、冷静に考えれば、犯人の特定はそれほど難しいことではありません。私は次のように考えました。

京都見廻組説の問題点

京都見廻組説の問題点とは、次にあげる二点です。一つめは、見廻組が龍馬を殺害する動機が弱いということ。

見廻組は幕府方の警察隊であり、倒幕派の志士である龍馬を敵視するのは当然のことでした。しかし、龍馬が献策した大政奉還が10月15日に成り、政権は平和裏に徳川から朝廷に移譲されているのです。
そんな、徳川家の温存のために尽くした龍馬を、倒幕派の者だからといってなぜいま殺害しなければならないのか。これは理解しにくいことといわざるをえません。

そして問題点の二つめは、龍馬暗殺当夜の状況からみて、犯人が龍馬の捕縛を想定せず、最初から殺害だけを目的としていたということ。

捕縛するつもりがあるならば、手勢を20ないし30人ほど用意して、龍馬の潜伏先である近江屋を取り囲むはずです。ところが実際には、7人ほどの少人数で一気に屋内に踏み込み、龍馬および同席していた中岡慎太郎を斬殺し、現場から立ち去っています。

龍馬が暗殺された近江屋跡地(京都市)

これは、幕府方の公式な警察隊である見廻組のやり方とは、とうてい考えられません。見廻組ならば、まず捕縛を第一に考え、相手が抵抗した場合には武力をもって制するという手順を踏むはずだからです。

これら二つの問題点があることが、見廻組犯人説がほぼ確実であるにもかかわらず、真犯人がほかにいるのではないかとの疑念を呼んでいる理由なのです。

龍馬暗殺の動機は何か

そこで、二つの問題点をなんとか解消することができないものかと私は考えました。それさえできれば、犯人は見廻組と確定することにつながるのですから、有効なアプローチ方法といえるでしょう。

まずは一つめの動機の問題。これについては、犯人グループの一人であることを自白した見廻組の今井信郎が、明治政府の刑部省口書(供述書)でこう語っています。

「土州藩坂本龍馬儀不審の筋これあり、先年伏見において捕縛の節、短筒を放し捕り手のうち伏見奉行所同心二人打ち倒し、その機に乗じ逃げ去り候ところ、当節河原町三条下る町土州邸向い町屋に旅宿まかりあり候につき、このたびは取り逃がさざるよう捕縛いたすべく、万一手に余り候えば討ち取り候よう御差図これありーー」

龍馬の罪状は、慶応2年(1866)正月23日に伏見の船宿寺田屋に伏見奉行所の捕方が向かった際、龍馬がピストルで二人を撃って逃亡したことにあるというのです。ここで注目したいのは、大政奉還を龍馬が推進していた点には一切ふれていないこと。

もちろん取り調べの場でのことですから、知っていることのすべてを自供したとは限りませんが、大政奉還の件は特に伏せるべきものでもありません。それを言っていないのは、今井にそういう認識がなかったのであろうことをものがたっています。

考えてみれば、確かに大政奉還は龍馬が土佐藩参政の後藤象二郎に授けた策ですが、その事実を知っているのは倒幕派のなかでもごく限られた人々です。幕府方の者はむしろ知るよしもありません。
したがって、見廻組が龍馬を殺害しようとした動機は、龍馬が寺田屋で奉行所同心2名を撃って逃亡した、いわゆる「お尋ね者」であったことに集約されるのです。奉行所同心、つまり警察官を射殺されたのですから、同じ警察組織である見廻組としては許すことのできない凶悪犯に思えたことでしょう。

寺田屋の一件があった慶応2年正月から2年近くもたった時期に龍馬が暗殺されたことについて、月日がたちすぎているとの指摘もありますが、その間、ほとんど龍馬は西国で活動しており、京都に戻っていたのは慶応3年6月から7月にかけての約1カ月間だけ。あとは京都にいなかったのですから、龍馬を討とうとしても討ちようがない状況にあったのです。

これらのことから、見廻組が龍馬を暗殺したとすれば、動機は大政奉還とは無関係で、あくまでも寺田屋で伏見奉行所同心2名を殺害したことへの報復だった。そう決定づけることができるでしょう。

薩長同盟が締結してまもなく、龍馬が長府藩士・三吉慎蔵と共に襲撃を受けた寺田屋(京都市)。

龍馬暗殺の鍵を握る佐々木只三郎

次に二つめの、最初から暗殺を目的としていたのはなぜかという問題です。龍馬襲撃が見廻組の公式な任務だったとしたら、捕縛を考えずに殺害するというのはありえないことは前述しました。

ならばなぜ彼らは龍馬を少人数で襲い、殺害したのか。その問題点を解決する鍵になるのは、当夜、龍馬襲撃を指揮していたとされる佐々木只三郎の存在です。

佐々木は、見廻組の「与頭」をつとめる大幹部で、「見廻役」「見廻役並」に次ぐ隊内ナンバースリーの実力者でした。実は見廻組の長官である見廻役は創設以来、蒔田相模守がつとめていましたが、慶応3年6月に辞職して後任の小笠原河内守に交替していました。
この小笠原は、前任の蒔田とは違ってあまり任務に積極的ではありませんでした。結局、病気を理由に就任からわずか半年後の12月に辞職してしまったような人物です。

一方、佐々木は入隊以来着実に実績を積み重ね、慶応元年(1865)12月に与頭に昇進しました。そんな隊内を統率する立場に昇りつめ、張り切っていたところに出くわしたのが、翌月に起こった寺田屋襲撃事件でした。

倒幕派の坂本龍馬という土佐浪士が、伏見奉行所の同心を2名射殺して逃亡したーー。このことは、徳川幕府を倒幕派から守ろうと決意を新たにしていた佐々木にとって、衝撃的な出来事であったのは想像に難くありません。

事件以来、龍馬の名は倒幕派のなかでも特に凶悪な者として佐々木の胸に刻み込まれたことでしょう。前述したように龍馬はその後、ほとんど京都に現れることがなかったのですが、慶応3年11月になって再び舞い戻っているとの情報を佐々木はつかみました。

前月には大政奉還がおこなわれ、それが龍馬の献策によるものとは知らなくても、龍馬ら倒幕派のせいで幕府は政権を失うことになってしまった。そんな憎き龍馬がいま手の届く場所にいると知れば、佐々木に殺意がめばえたであろうことは十分に考えられるでしょう。

だから佐々木は、見廻組の公式な任務ではなく、龍馬を殺害することを唯一の目的として近江屋に向かった。そのため上司の小笠原やもう一人の上司である見廻役並の岩田織部正にも告げずに、少人数の隊士だけを連れてひそかに暗殺を決行したと思われるのです。

もちろん独断専行は組織にあっては問題になりますが、当時の佐々木は実質的には小笠原や岩田をしのぐほどの権力を持っていました。見廻組内では、誰も佐々木の行動を制することはできない状況にあったのです。

最初から暗殺が目的だった

龍馬襲撃は公務ではなく、佐々木が独断でおこなった暗殺行為だったーー。そう考えて、もはや間違いないでしょう。このことにより、彼らが最初から暗殺だけを考えて行動していた理由がわかり、見廻組説が抱えていた二つめの問題点も解消されるのです。

暗殺部隊のメンバーは、今井信郎によれば渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助が実行犯、今井、佐々木、土肥仲蔵、桜井大三郎が見張り役であったといい、もう一人の証言者である見廻組の渡辺一郎(篤)によれば佐々木、渡辺、今井、世良敏郎が実行犯、ほかに二名の見張り役がいたとされています。

どちらが事実を語っているのかは難しいところですが、今井の証言は自分以外の者が全員鳥羽伏見の戦いの戦死者であるというところに不自然さが感じられます。その点で、渡辺の証言のほうに信憑性があると考えていいでしょう。

犯人は、京都見廻組の佐々木只三郎渡辺一郎今井信郎世良敏郎の4人だったに違いありません。彼らのうちの誰か、もしくは複数の者が、龍馬に向けて凶刃を振り下ろした。これが、見廻組説の問題点を解消したことにより導きだされた、龍馬暗殺の真実なのです。

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