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城郭研究家・西股総生の【 戦国の城・ネコの巻 】第9回「菅谷館か菅谷城か」

戦国の城の極意をライトにお伝えする、今回の「ネコの巻」は今年、日本城郭協会によって続日本100名城に選ばれた城の中から、僕のオススメを紹介してみましょう。

池袋から東武東上線に揺られること、1時間ばかり。武蔵嵐山(むさしらんざん)という駅で下りて、静かな町の中を南に15分ほど歩くと、国道254号という大きな道に出ます。この道を渡る歩道橋に登ってみると、“ど~ん”と大きな土塁が目に飛びこんできます。「菅谷館」の名で知られる城跡です。

城跡に建つ石碑と説明板には「菅谷館跡」と書かれている。
(写真提供:西股総生)

この城は、鎌倉幕府の御家人として有名な畠山重忠の館跡として、国指定史跡となっています。しかし、城内を歩いてみると、主郭を中心として大きな土塁と空堀が幾重にも取り巻いていて、なかなかに広大かつ堅固な構えです。

城の研究書をめくってみると、「菅谷城」と書かれていることが多く、現在残る城の遺構は戦国時代のもの、と説明されています。では、「菅谷館」と「菅谷城」、いったいどちらが正しい呼び名なのでしょう?また、もし城が戦国時代のものだとしたら、畠山重忠との関係はどう考えればよいのでしょう?

畠山重忠といえば、源頼朝の御家人として鎌倉幕府の草創に力を尽くした、剛勇で忠義心にあつい武士として知られています。鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鑑』という書物には二度ほど、畠山重忠の「菅谷館」が出てきます。1187年(文治3)11月と、1205年(元久2)の6月の記事です。嵐山町菅谷にある城跡を畠山重忠の館と見なす、最大の根拠がこの史料です。

ただし、『吾妻鑑』1205年(元久2)6月の記事には「小衾(おぶすま)郡菅谷館」とありますが、嵐山町のあたりは比企郡なので、少々疑問が生じます。重忠の一族はもともと「畠山荘司」といって、畠山荘の荘官(現地の管理者)に任じられていました。畠山荘は嵐山町の北にある川本町(現在は深谷市)のあたりです。
そして、川本町のあたりは、もともとは男衾(小衾)郡に含まれていました。つまり、重忠の本拠は嵐山町でなく、川本町の方にあった可能性があるのです。

土塁の上に立つ畠山重忠の像は、なかなかの男前。
(撮影:編集部)

もう一つ、考えておきたいことがあります。中世には武士の住まいは「屋敷(宅)」と呼ぶのが普通であって、「館」と書いている史料はほとんどありません。「館」の字は中世には「たち」と読むのが普通です。「やかた」は「屋形」とも書くように、もともとは家の形をしたものとか、仮住まいを意味していて、「身分の高い人の邸宅」という意味はありませんでした。でも、戦国大名のことをよく「御屋形様」と呼びますよね?

「館」という字は「食」と「官」からなっていて、古代には役人の官舎や、公邸のような建物を指していました。そこで、都から地方へ赴任した国司が現地で暮らす建物を、「館」と呼んだようです。おそらく、ここから派生して中世には、守護の公邸を「館・屋形」と呼ぶようになり、守護のことも「御屋形様」と呼んだのでしょう。

とはいえ、畠山重忠のような一般の御家人の住まいを「館」と呼ぶのは、やはり不自然です。一方で『吾妻鑑』を見ていると、頼朝が出陣先で泊まった建物などを、「旅館」「宿館」と呼んでいます。こう考えてくると、『吾妻鑑』で登場する「菅谷館」が何を指していて、どこにあったのかは、慎重に検証する必要がある、と言えそうです。

主郭の土塁と空堀は巨大で、虎口に対する横矢掛りも認められる。
(写真提供:西股総生)

時代が下って1487年と88年(長享元・2)には、武蔵国の「須賀谷原」というところで山内上杉軍と扇谷上杉軍とが激突しました。上野(こうづけ)の禅僧が書き残した『松陰私語』という記録には「河越に対抗して須賀谷の旧城を再興する」という話が出てきます。

前後の状況からみて、この須賀谷原合戦が嵐山町菅谷の一帯で行われたことは間違いありません。だとしたら、現在残っている城跡は、須賀谷原合戦に関係して築かれた可能性が強まります。ただ、気になるのは「旧城」という言葉。合戦より前に、この場所には城か何かがあったことになります。それこそが、重忠の「菅谷館」だったのでしょうか?

実は、鎌倉時代の武士の屋敷には土塁も堀もなかったことが、今から30年ほども前に、考古学研究者によって指摘されています。畠山重忠の「菅谷館」にも土塁や堀はなかったと考えた方がよいでしょう。しかも、これまで嵐山町菅谷の城跡で何度か行われてきた発掘調査では、鎌倉時代にさかのぼる遺構や遺物などは一切、見つかっていません。

ここからは、僕の推測になります。畠山重忠の「菅谷館」は、嵐山町の菅谷とは別の場所だった可能性が高い。一方で、嵐山町の菅谷は鎌倉街道が槻川を渡る場所にあって、軍事的には要衝です。南北朝時代から何度か、陣のような施設が置かれたのでしょう。そして1487・88年に、この一帯で須賀谷原合戦が起きたのです。

いま残っている城跡を見ると、横矢掛りが連続して設けられていたり、枡形虎口や角馬出が造ってあったりと、いろいろな築城技法を組み合わせて使っています。縄張りから見るかぎり、戦国時代初め頃の他の城跡とは様子が違っています。もっと新しい、戦国時代後半の城のように見えるのです。この場合、北条氏が築いた可能性が高くなりますね。
もちろん、北条氏の築城というのは僕の推測ですが、でも少なくとも、この城跡は「菅谷館」ではなく「菅谷城」と呼んだ方がよいことはわかると思います。この場所が畠山重忠の「菅谷館」だったという根拠は、とてもあいまいなのですから。

重忠の館がだんだん拡大されて今の城になったという説明も、よく目にします。でも、重忠の館そのものの存在があやしいのだとすれば、これもこじつけにしかなりません。そう思って城跡を歩いていると、面白いモノを見つけました。「菅谷城跡」と書かれた幟。

城内に立っている幟には「館跡」ではなく「城跡」とある。
(写真提供:西股総生)

これ、城跡を管理している関係者が立てたもののはずなんだけど…。やっぱり「菅谷城」と呼ぶべきなんだ、と考える同志がいるのかな?
そんなわけで僕は、せめてお城ファンや戦国史ファンの皆さんには、「菅谷城」と呼んでほしいと訴えてきたのですが、今年になって「菅谷館」の名前で、続100名城に選ばれました。

埼玉には、すばらしい土の城がたくさんあります。その一つが、日本全国に知られるきっかけとしてはうれしいのですが、でも「館」では…と、複雑な気持ちでもあります。

土の城とサッカーでは埼玉が一番だにゃあ。
神奈川には負けないにゃ。
(写真提供:いなもとかおり)

[お知らせ]
先月刊行された西股総生著『杉山城の時代』は、発売からわずか2週間で重版が決まるなど、城界にちょっとした波紋を投げかけています。この本では、比企地方の諸城と杉山城とを比較するなかで、菅谷城についても考察しています。ご興味のある方はぜひ、ご一読下さい。

『杉山城の時代』
(角川選書・1700円+税)

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【 戦国の城・ネコの巻 】連載一覧
第8回「戦国の城は丸坊主だった?」
第7回「櫓の話」
第6回「城の形はネコ耳をめざす?」
第5回「夏はゆるりと平城を」
第4回「本当は怖くない八王子城御主殿の滝」
第3回「天守って何だ!」
第2回「深大寺城どうでしょう?」
第1回「プロローグ」
【 城の本場は首都圏だった!? 】続100名城もあり!『首都圏発 戦国の城の歩きかた』が発売

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