歴人マガジン

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【 故事の真相を徹底検証 】上杉謙信は武田信玄に本当に塩を送ったのか?

戦国ファンによく知られる「敵に塩を送る」という故事。今川、北条両氏の武田領への塩商い禁止(塩止め)に苦しむ武田信玄に、上杉謙信が塩を送ったという話は、史実としての裏付けがないため、後の創作ともいわれています。そんな「敵に塩を送る」の真相について、上杉謙信に詳しい歴史研究家の乃至政彦氏が徹底的に検証します!

秋葉公園にある「上杉謙信公像」(新潟県長岡市)。

新渡戸稲造と塩送りの伝承

「敵に塩を送る」の故事が成立したのは、明治から昭和にかけてではないかと考えられる。なぜなら、徳川時代の終わりまで、この言葉が諺(ことわざ)として使われた形跡が見つけられないからである。

明治33年(1900)、教育者であり思想家でもある新渡戸稲造が外国人に向けて出版した名著『武士道』(日本語版は明治41年[1908]刊行)の「勇気・敢為堅忍の精神」を語るくだりに、「敵に塩を送る」の挿話が紹介されている。

北条氏康像
(早雲寺蔵)

ある時、相模の北条氏康が甲斐の武田信玄に対し、経済封鎖を考えた。塩の輸出を停止したのである。謙信はこれを卑怯だと批判し、長年の宿敵である信玄に「塩が欲しいならいくらでも送ります。わたしは米や塩ではなく、弓箭でのみ争うことを好みますので」と書を送って、売人たちに塩の値段を釣り上げないよう命じたという挿話が紹介されている。
そして、カミラスのセリフ「羅馬(ローマ)人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う」と、ニーチェの「汝はその敵を誇りとすべし。敵の成功はまた汝の成功なり」、孔子の「仁者必ず勇あり」を引いて、これに劣らない崇高な精神だと讃えている。

新渡戸稲造の先祖は謙信流軍学者だった。このため、話の出所は軍学者の創作に思えるかも知れないが、そうではない。

新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳
『武士道』
(岩波文庫)

上杉の軍記には塩送りの伝承はない!?

「敵に塩を送る」の挿話は、謙信の人徳を讃える美談として格好の材料となるから、もし謙信流の軍学者や米沢の上杉藩がこの挿話を知っていたら、盛んに語り継いでいたはずである。だが、不思議なことにそうした形跡はない。

例えば、謙信流軍学者の軍記(『川中島五ヶ度合戦次第』『北越軍記』『春日山日記』『上杉軍記』等)や上杉家編纂の正史(『謙信公御年譜』)を見渡しても、この挿話は探し出せない。上杉寄りの文献は、新渡戸が現れるまで塩の挿話を書き記していないのだ。
すると新渡戸は挿話をどこから拾い出したのだろうか。

美談ではなく尚武精神の高揚だった

さしあたって考えられるのは、岡谷繁実の『名将言行録』である。同書は明治2年(1869)に書き上げられたもので、その内容はタイトル通り、古今東西に見られる英雄たちの言葉と行動を紹介するものだ。

岡谷繁実著、北小路健、中澤惠子訳
『名将言行録』
(講談社学術文庫)

同書の「上杉輝虎」項をみてみよう。今川家と北条家から塩を止められた信玄に、謙信が書を送り届けた。そこには「今川と北条は卑怯だ。越後から信濃には川中島を、上野には猿ヶ京を使って輸送する。値上げは禁ずる」旨が記されてあったという。ただ、新渡戸ほど美談として強調しておらず、単なる剛毅な大将の振る舞いとして紹介しているに過ぎない。

すると「敵に塩を送る」の諺を、「武士道」から生じる義挙の一つに位置付けたのは、新渡戸以降である可能性が浮かび上がる。
なぜならこの挿話はもともと心優しい聖将の美談ではなく、「武士の勝負は、米や塩でするものではない」という尚武精神の高揚が本筋にあったからである。

だが、今ではなぜか「弱った相手が敵であっても助ける」というニュアンスにされてしまっている。これは多くの日本人が原典に触れず、イメージと言葉だけが一人歩きする事で、意味が変わってしまったのだろう。

「敵に塩を送る」の言葉が現代的な意味で通じるようになったのは明治以降、もしかすると戦後からではないか。それではここで現代的なイメージから離れ、伝承の出典を探り、挿話が史実である可能性を検証してみよう。

武田の軍記で拡散された塩送り伝承

岡谷はこの挿話をどこから拾ったのだろうか。『名将言行録』は1251冊もの史料を参考文献に挙げているが、挿話ごとに出典を記しているわけではない。故に出典を明確にする事は難しい。

塩送りに関していえば、岡谷が挙げた参考文献の中に明和7年(1770)成立の湯浅常山による『常山紀談』がある。同書では「上杉謙信塩を甲斐に送る事」と題する項に、『名将言行録』と似た調子で塩送りの挿話を紹介している。

岡谷の挙げる参考文献には見えないが、より古いところでは享保5年(1720)までに成立した片島武矩の『武田三代軍記』がある。同書の「塩止上杉謙信書通之事」と題する項に、塩送りの逸話があり、これもやはり謙信が塩商人に値上げを規制する筋書きとなっている。挿話の出所がこれであれば、上杉家の記憶や思惑と関係のない武田側の軍記から拡散された事になる。

甲府駅南口前の「武田信玄公之像」(山梨県甲府市)。

塩は無償で送らず、ふっかけもせず

ここでわかるのは、これらの文献では、故事の響きとは異なり、無償で塩を送ってはいないことである。また武田の足元を見て塩商人に儲けさせることもしていない。むしろ、「この機に乗じて高値で売ってはならない」と商人に厳しく言い聞かせているのである。

そしてその伝承は上杉側ではなく、武田側から広められたものだった。武田家は滅亡前から書き継がれてきた『甲陽軍鑑』からして謙信への絶賛を重ねている。同時代史料でも信玄自身、「日本一之名大将」とべた褒めしているほどで、上杉家そのものよりも武田家の方が謙信を高く評価していた節がある。

塩送りの史実

さて、肝心の「敵に塩を送る」の史実性について考えてみよう。
塩送りの故事に由来する催事「松本あめ市」の伝承では、永禄12年(1569)1月11日に、謙信の命令で松本城まで大量の塩が直送された事とされている。

2018年の「松本あめ市」は、1月13日と14日に開催。

年次は明確ではないが、『武田三代軍記』を読むと、今川家と北条家は、信玄の長男である義信が自害した永禄10年(1567)の翌年、すぐに塩止めを開始している。
もし現地の伝承通りの月日に塩が運ばれたのなら、今川家と北条家の経済封鎖はスタート早々から謙信の妨害で失敗した事になる。
謙信は何を考えて長年の宿敵に塩の輸出を許したのだろうか。

今川家と北条家の狙い

北条家と今川家の狙いは、甲斐に入る塩を完全に停止させるものではなかった。なぜなら、そんな事は不可能だからである。

両家は自分たちからの塩止めにより、越後をはじめとする北陸の塩が信濃・上野で急騰し、さらに武田の本国である甲斐で高騰する事を期待したであろう。そうすると、武田領国内で塩の入りやすい信濃・上野と、海から遠い甲斐で格差が起こる。そこに生じた不和から信玄に属する領主が離反の動きを見せるかもしれない。

あるいは信玄が近年隠さなくなった今川領国への野心を打ち破るかもしれない。駿河の今川氏真は、同盟国の信玄が南下する可能性をとても恐れていた。

今川氏真

ここで謙信が介入しなければ、武田の領民はひどく苦しんだだろう。だが、謙信が塩商人に厳しく「値段を上げるな。通常価格を守れ」と命じたため、事態は深刻化を免れたようである。その証跡として、当時の史料に武田の領民が塩不足で苦しんだとする記録はない。

もし、今川家と北条家の思惑通り、越後からの塩が暴騰していたら、「敵に塩を送る」の故事が生まれるどころか、武田領民から嫌味をこめて、「敵に塩を売る」の故事が残されたはずである。
謙信は、塩の流通を止められなかったのでも、止めなかったのでもなく、価格をコントロールして、今川氏真らの戦略に乗らない姿勢を明確にしたのである。
この謙信の決断には一つの理由があった。

甲越和与の伏線としての塩送り

ここで当時の外交関係を見直してみよう。
当時の謙信は水面下で武田家との和睦を模索していた。これは首尾よく進み、永禄12年(1569)に一時的な「甲越和与」が成立している。

重要な外交努力を進めている最中、謙信はつまらない事で武田家から恨みを買うわけにはいかなかった。
このため、塩の値段を抑止した事を信玄に直接通達したのであれば、それは商戦や美談ではなく、まっとうな政治行動として合理的に理解する事ができるだろう。

相性最悪の謙信と氏真

もとからして、謙信は今川家があまり好きではなかった。
永禄11年(1568)11月25日、武田と対立を深める今川氏真は、敵の敵は味方と考えた。謙信に「義元以来の筋目」なる言葉を持ち出して味方になるよう誘ったのである。

しかしその「義元」は、謙信と信玄の川中島合戦を停戦させた事があるぐらいで、その後、今川家は謙信と敵対する武田・北条の支援を行っている。さらには謙信と親しい織田・徳川を相手に紛争を繰り返している。両家が仲良くする筋合いなど何もなかったのだ。

八幡原史跡公園にある信玄と謙信の川中島での一騎討像(長野県長野市)。

そこに氏真は空気を読まず、謙信が命がけで守ってきた「筋目」なる言葉を軽々に持ち出したのである。これがどれだけ謙信の機嫌を損ねるかは想像するに余りあろう。
しかもこの時、謙信は本庄繁長の乱で切羽詰まっており、氏真のために信玄と争っているゆとりなどない。それよりも安価で塩を送っている方がずっとマシである。
謙信が氏真に冷淡だったのも当然といえるだろう。

戦国の人間とは思えない謙信の不思議な言動

我々も謙信みたいに財宝と金銀で充満する港町をいくつも持っていて、天下一といわれるほどの軍事力と権力があれば、信玄に塩を安く売りつけてドヤ顔ぐらいするだろう。上杉家で塩送りの挿話が記録に残されていないのも当然といえば当然である。

謙信の史料を探っていると、戦国時代の人間とは思えない不思議な言動がたくさんある。自分の起こした戦争で被災した敵国領内の寺院に復興の援助を施したり、戦争捕虜を身内に解放したり、今日なら美談とされそうな振る舞いが多い。

しかし、謙信はそんなことを一つ一つ誇大に自慢して、人に語らせたいとは考えなかったのではないだろうか。
四十九年は一眠りの夢、一代の栄華も一杯の酒と同じ。それが謙信の思想だった。
数代も昔の富豪が隣国に塩を送ったかどうかを疑って嗤うより、それに勝る善行の一つでもしてみたらどうだ。そう笑って杯を一息に干す泉下の謙信が思い浮かぶのである。


乃至政彦(ないし・まさひこ)
歴史家。単著に『上杉謙信の夢と野望』(ベストセラーズ、2017)、『戦国の陣形』(講談社現代新書、2016)、『戦国武将と男色』(洋泉社歴史新書y、2013)、歴史作家・伊東潤との共著に『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社歴史新書y、2011)。監修に『別冊歴史REAL 図解!戦国の陣形』(洋泉社、2016)。テレビ出演『歴史秘話ヒストリア』『英雄たちの選択』など。

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