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花魁と太夫の違いとは?格差が激しい吉原での遊女の身分と地位

花魁はアイドル!?世間的な地位

吉原で太夫が一般的だったのは、江戸時代前半から中期までです。
太夫は主に公家、大名、旗本ら上流階級の身分の人を相手にしていました。しかし、江戸時代中期には風紀取締の流れもあり、当時の超上流客の足が遠のいていきます。結果的に、太夫としてやっていける遊女は減少していきました。宝暦年間(1751~1764年)の頃には、太夫と呼ばれる遊女は吉原で消滅します。

遊女と遊ぶには大金が必要だった

茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みになっていました。江戸時代を通じて格の高い見世の遊女を買う客は、揚屋(のちには引手茶屋)と呼ばれる店で遊女を呼んでもらい、宴席を設けたあとに自分の買った遊女を連れて見世へ登楼(とろう。入店のこと)するという手順を踏みます。席料、料理代から揚げ代まで、かなりの大金が必要でした。現代の金額にすると、物価の違いや諸説あり、はっきりとしたことはいえませんが、ちょっと遊ぶという程度でも数十万円かかったといわれています。正に高嶺の花ですね。

このとき買われた遊女が見世から茶屋や揚屋へ向かうことを、「花魁道中」といい後世にも語り継がれています。

絵師、歌川広重による優美な錦絵。吉原中之町の花魁道中とされている。

夢のような花魁道中

時代の経過とともに、花魁道中の豪華さはエスカレートしていき、非日常感を増していきました。そのきっかけとなったのが、昼のみの営業だった元吉原から、昼夜営業できた新吉原への移転です。

きらびやかな衣装を身にまとい、禿や新造など大勢を引き連れて、夕暮れ時の遊郭の中を練り歩く一行の様子は、きっと幻想的に映ったことでしょう。その絢爛豪華な様子は、数多くの浮世絵や錦絵にも描かれています。

郭を出たら…悲しい現実

しかし、華やかな世界はあくまでも遊郭の中でのものに過ぎません。郭から一歩外に出れば、商売女とされた遊女たちの地位は低く、軽蔑の厳しい視線が待っていたようです。

そもそも禿の頃から遊郭の中で生活してきた彼女たちは、外の世界をあまり多く知らなかったはずです。炊事・洗濯・裁縫など、当時の家事技能を身に付ける機会は無く、世間の常識とかけ離れた郭での常識しか持ち合わせていません。普通の街に暮らす町人の妻としてやっていくのは、難しいことだったのではないでしょうか。

吉原の外に出ると遊女たちには悲しい現実が待っていた。その末路は……。

遊女たちの末路

遊女の末路として知られるのは、瘡毒として知られる梅毒などの性感染症での孤独な死かもしれません。大旦那から身請けされて妾になったり、結婚したり、年季明けに吉原の外で世帯を持ったりした例は、ほんの一握りだったようです。

吉原の外では強い差別が待っており、非公式の売春宿である岡場所や半公認の宿場の女郎となる者も多く、吉原に留まって妓楼の世話仕事や管理をする遣り手や番頭新造として働きつづける者がほとんどでした。

そんな遊女たちのささやかな夢は、吉原遊郭に出入りする商人や職人と結婚すること……。
それが、彼女たちの手の届く現実的な小さな幸せだったのかもしれませんね。

 

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