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第5回「“新選組が誕生した日”は何月何日なのか?」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】


幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第5回のテーマは新選組が誕生した日についてです。彼らが結成された日とされる「文久3年(1863)2月27日」は、実は新選組にとってなんでもない日だったんです…!本来の「誕生日」はいつなのか。その真相を解明します。

新選組の屯所となる、壬生の八木邸(京都市)。

2月27日は何をした日か

先日の2月27日に、「今日は新選組の日」という情報がネット上で広まりました。文久3年(1863)2月27日が、新選組の結成された日というのです。
どこの団体が認定したものかはわかりませんが、それほど断定的にいうのだから、当然正しいことなのだろうと多くの人が思ったようです。しかし、実はこれはまったくの誤りなのです。

新選組が結成された日とみなされるのは、彼らが京都守護職・松平容保のお預かりとなった文久3年の3月12日~13日であるべきで、この2月27日というのは実はなんの日でもありません。
なんの日でもないとはいっても、なにかはしたんだろうと思われるでしょうが、本当になにもしていない。現在確認できる記録では、この日は新選組にとって本当になんでもない日なのです。

新選組を預かることとなる京都守護職・松平容保。

ならばなぜ、この日が「新選組が結成された日」などとされたのでしょうか。私も頭を悩ませましたが、ようやくその理由がわかりました。『国史大辞典』(吉川弘文館)の「新選組」の項目に、こう書いてあったのです。

「京都に残った浪士組は、文久3年2月27日に京都守護職松平容保の監督下に入り――」

これは、内容的にはまったく間違っています。本当に2月27日に松平容保の支配下に入ったのなら、それを新選組の結成日とするのに問題はありませんが、そういう事実はどこにもない。異説としても見当たりません。

おそらくは単なる間違いなのでしょう。そして、記念日を認定する団体も、『国史大辞典』が日本史の事典として最高に権威のある本であることから、無条件に内容を信じてしまったようです。
よりによって、たまたま記述が誤っている箇所を見て、「新選組が結成された日」を確定してしまうとは…。困った話もあったものですね。

新選組が誕生した日は?

では新選組が結成された日、すなわち新選組が誕生した日はいつと見なすべきでしょうか。
文久3年2月23日に幕府の浪士組は京都に到着しましたが、浪士組の募集を幕府に建言した庄内浪士・清河八郎がその夜突然裏切りました。自分たちの真の目的は幕府のために働くのではなく、天皇のために尽くすことにあると、浪士一同の前で宣言したのです。

浪士組の提案者だった清河八郎。

そして3月3日、浪士組は江戸に帰って外国との戦争にそなえよという命令を、朝廷から出させることに清河は成功しました。天皇のお墨付きを得て攘夷を実行するのが、「隠れ尊攘志士」である清河のねらいだったのです。

急に江戸に帰るということになって、230人余りの浪士組の者は驚きましたが、清河の巧みな弁舌に乗せられて、大半はそのまま江戸に帰還することになりました。しかし、近藤勇ら20人ばかりの者は、将軍警護という本来の目的をまだ果たしていないといって反対し、浪士組を脱退して京都に残る道を選びました。

のちに新選組局長となる近藤勇。

近藤らは3月10日、京都守護職をつとめる会津藩主・松平容保を頼り、将軍が滞京している間だけでも自分たちが京都に残留することを許可してもらいたいと願い出ます。これはつまり、守護職の配下として京都の治安維持のために働くから、その間の面倒を見てほしいということです。

この願いが聞き届けられたのは、3月12日深夜のことでした。近藤の手紙にこう書かれています。

「十二日夜九つ時、ようよう願いの趣意お聞き済みにあいなり、会津公お預かりとあいなりおり候」

壬生村の八木源之丞邸で待機する近藤らのもとに、おそらくは会津藩の使者がやってきたのでしょう。使者がもたらしたのは、近藤らを会津藩のお預かりとする、つまり臨時雇用するという吉報でした。

夜九つ時というのは、深夜0時のこと。なぜそんな時間に知らせが届けられたのかというと、翌日の13日に浪士組本体が江戸に向かって出発することが決まっていたからです。だからそれまでの間に、近藤らの身分を確定させてあげる必要があったのでした。

ちなみに深夜0時ならば、12日とみなすのか、13日とみなすのかという問題があります。現代的に考えれば、0時からは日が改まることになっているので、13日ということになります。
しかし、江戸時代はそうではありません。当時は夜明けとともに日付が変わるとみなすのが一般的な考え方だったのです。あの赤穂浪士の討ち入りも、12月15日の午前4時頃におこなわれたにもかかわらず、討ち入り日は14日とされています。

したがって、近藤らのお預かり決定は、13日ではなく12日のこととみなすのが、当時の常識を踏まえた解釈ということになるのです。新選組が誕生したのは3月12日。この日をもって、「新選組の日」と認定するのが最も正しい考え方になるでしょう。

誤られた壬生浪士の名称

新選組が誕生したといっても、実はその名称はまだありませんでした。誕生から数カ月の間は、新選組ではない別の名を彼らは名乗っていたのです。
その名は、「壬生浪士」。本拠地を洛西の壬生村に置いたので、彼ら自身がそう自称していました。彼らが目標にしていたとされる「赤穂浪士」をまねたものであったかもしれません。

歌川国貞「仮名手本忠臣蔵」より。
新選組のだんだら模様の羽織は、
赤穂浪士をまねたものともいわれています。

ここで注意したいのは、「壬生浪士組」ではないということ。新選組関係の書籍等ではよく「壬生浪士組」と書かれ、その名が世間に浸透していますが、実は彼らは「壬生浪士組」と名乗ってはいませんでした。彼らが称していたのは、あくまでも「壬生浪士」だったのです。

実際、当時の記録を調べてみても、「壬生浪士組」と記されたものはほとんどありません。1、2件は見つけることはできるのですが、それらは事情に詳しくない第三者が記録したものにすぎず、100件も200件もあるかと思われるほかの大半の記録は、みな「壬生浪士」とされています。

もちろん彼ら自身や、会津藩の関係者の間ではもれなく「壬生浪士」で統一されています。これだけ多くの、信頼できる記録が「壬生浪士」としていることを考えると、「組」を省略して書いたのではなく、もともと「組」はついていなかったとみなさざるをえないのです。

新選組の初期の名は「壬生浪士」だった――。歴人マガジンの読者の方々には、今後そういう正しい認識を持っていただきたいと思っています。

ちなみに壬生浪士は、会津藩から働きぶりを認められ、この年の9月頃に「新選組」という新しい隊名を与えられることになります。このときをもって新選組の誕生とみなすこともできますが、残念ながら日付がはっきりしておらず、「新選組」と命名された日を「新選組の日」とすることは不可能です。

やはり、「新選組の日」すなわち「新選組が誕生した日」は、3月12日とするのが最も適切な考え方といえるでしょう。

【お知らせ】
山村竜也先生の最新刊『世界一よくわかる幕末維新』が3月14日(水)に発売されます。ペリー来航から西南戦争終結まで、政治的にも複雑な幕末維新期をわかりやすく紹介。幕末初心者はもちろん、学び直しにもぴったりです。

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