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【三国志の貂蝉、唐の楊貴妃など 】謎めいた「中国四大美女」の伝説

みなさんは、「世界三大美人」をご存知だろうか。すなわち、クレオパトラ(エジプト)楊貴妃(中国)小野小町(日本)の3人である(異説あり)。その中のひとり、楊貴妃は「中国四大美女」にも名を連ねているが、四大美女を年代順に左から並べたものが冒頭の図。1.西施(春秋時代) 2.王昭君(前漢) 3.貂蝉(後漢) 4.楊貴妃(唐)である。

実は、彼女たちも含めた「中国十大美女」というものまである。共通するキーワードは「時の権力者に愛された、傾国の美女」(国を傾けるほど美しい美女)たち。ただ、10人はとても紹介しきれないので、今回は「中国四大美女」たちの生涯や、彼女たちにまつわる伝説などを紹介したい。

呉王を”骨抜き”にしてしまった、沈魚美人(ちんぎょびじん)

西施(せいし)

西施は、春秋時代の終わり頃にあたる紀元前5世紀、中国南東部(現在の浙江省)に生まれた。当地に2つの村があり、どちらにも「施」という姓の家があったが、彼女は西の村に住んでいた。美人で評判だったことから「西施」(西の村の施さん)と呼ばれるようになったという。

「沈魚美人」というあだ名は、彼女が川で洗濯をしていたとき、そのあまりの美しさに、まわりの魚たちが泳ぐのを忘れて沈んでいったことに由来する。むろん伝承の域を出ないが、それぐらいの美貌を持っていたということだ。やがて西施は「臥薪嘗胆」の故事で知られる、越王・勾践(こうせん)に呼ばれて宮中へ入る。が、同時に呼ばれた鄭旦(ていたん=十大美女のひとり)たちと一緒に、すぐに呉王・夫差(ふさ)に送られた。

これは勾践が「夫差に美女を送り、骨抜きにしてやろう」という策だったが、見事に的中。夫差は西施らに夢中になり、呉は弱体化を続ける。そして紀元前473年、とうとう越に滅ぼされてしまった。呉の滅亡後、越王・勾践の夫人は、自分の地位の低下を恐れ、西施を生きたまま皮の袋に入れ、長江に投げ捨てさせたという。生存説もあるが、史実に見られる西施の逸話は、大体このようなものだ。

『今昔物語集』にも登場する、落雁美人(らくがん・びじん)

王昭君(おう・しょうくん)

姓を王、字(あざな=通称)を昭君という。もとは漢の後宮(前漢の10代皇帝・元帝のころ)にいた女性だったが、異民族・匈奴(きょうど)の王に、漢王室の女性を嫁がせることが決まり、白羽の矢が立ったのが彼女である。

匈奴の本拠地は、現在のモンゴル高原だ。旅の途中、王昭君は故郷の方向へ飛んでいく雁(がん)の群れを眺め、望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした。すると、その美しい姿と哀しみの旋律に、雁は翼を動かすのも忘れ、次々に落ちてきたという。これが「落雁美人」の由来だ。

匈奴の王、呼韓邪(こかんや)の妻となった王昭君は、ほどなく男子を産んだ。しかし、紀元前31年に夫が亡くなり、未亡人となってしまう。ただ当時、匈奴の王室の習慣により、王位を継いだ義理の息子(亡父の前妻の子)と再婚させられた。

いわゆる近親相姦であって、漢民族から見れば不道徳な行いである。王昭君は反発したが、受け入れざるを得なかった。その後、女の子をふたり産んだという。以降の彼女の動向や最期は不明だが、その数奇で薄幸ともいえる生涯は後世に長く語り継がれ、日本にも伝来して『今昔物語集』にも収められることとなった。

おなじみ「三国志演義」で活躍する閉月美人(へいげつびじん)

貂蝉(ちょうせん)

貂蝉は後漢末期、三国志の時代に活躍した呂布の妻として知られる。四大美女の中では唯一、架空の人物といわれるが、実在したモデルがいる。正史『三国志』に、「呂布は董卓の侍女と密通していた。その発覚を恐れ、内心落ち着かなかった」とある。この名もない侍女こそが、小説『三国志演義』(三国演義)に登場する貂蝉の元になったと考えられているのだ。

ちなみに、貂蝉の名前の由来だが、中国の王朝に「貂蝉冠」という装飾付きの被り物があり、そこから来たとする説がある。動物の貂(テン)の毛皮や蝉(セミ)のような飾りがついた冠であり、華やかなものであったと想像できる。絶世の美女の名が動物や虫に由来するのは珍妙といえよう。

さて、『三国演義』において、呂布は美女・貂蝉をめぐって主君の董卓と対立。やがて董卓を討ち、群雄のひとりとして乱世に名乗りを上げる。この後の貂蝉を、みなさんはどのように認識しておられるだろうか?

作品によってさまざまに解釈される貂蝉の最期

呂布と貂蝉
(ドラマ『三国志 Three Kingdoms』©中国伝媒大学電視制作中心、北京東方恒和影視文化有限公司)

日本人にとって馴染みの深い吉川英治の小説『三国志』や、それを原作にした漫画・横山光輝『三国志』では、董卓を死においやった後、貂蝉は自害する。哀れにも、その若き命を散らす様子が描かれるのだ。しかし、本来の中国版の小説(『三国演義』)では、貂蝉は呂布の愛妾としてその後も生き延びる。そして西暦198年、呂布が下邳城(かひじょう)に籠城した際、正妻の厳氏(げんし)たちとともに登場するなど、わずかに見せ場を残す。

しかし、呂布が曹操に敗れ、処刑された時には貂蝉の出番はない。その後の彼女がどうなったかは、読者の想像に委ねられる……。近年、これにアレンジを施して話題を呼んだのが、ドラマ『三国志 Three Kingdoms』第18話~第19話の展開だ。処刑台にくくりつけられた呂布と運命を共にしようとするも引き剥がされ、その後、曹操がなんとかして自分の妾にしようとする……という興味深い筋書きが加えられている。

貂蝉
(ドラマ『三国志 Three Kingdoms』©中国伝媒大学電視制作中心、北京東方恒和影視文化有限公司)

貂蝉の別名「閉月美人」については、憂国の思いで月を眺めているとき、その美貌に月さえもが雲に隠れてしまった、という逸話から。架空の女性ながら、他の3人と比べても遜色のない、まばゆい輝きを放っている。

実は最も謎めいている? 羞花美人(しゅうかびじん)

楊貴妃(ようきひ)

楊貴妃の知名度は高い。あまり中国史を知らなくても、名前ぐらいは聞いたことがあるよ、という方は多いはずだ。四大美女の代表格ともいえる存在で、冒頭にも述べた「世界三大美人」のひとりでもある。比較的、生きた時代が新しく、生没年もはっきりしていてリアリティのある点も魅力といえよう。庭を散歩すると、あたりの花々が彼女の美貌と芳香に気圧され、しぼんでしまったという伝承が「羞花美人」(花も恥じらう美女)の由来だ。

楊貴妃は、蜀の国(いまの四川省)の地方役人をしていた楊家に生まれた。元々の名前を楊 玉環(ぎょくかん)といったらしい。740年、唐の6代皇帝・玄宗の息子の后として後宮に入れられたが、なんと玄宗は楊玉環の容姿に一目惚れ。息子の嫁だったはずなのに、自分の貴妃にしてしまう。これが「楊貴妃」という呼び名の由来だ。

楊貴妃と玄宗
(ドラマ『麗王別姫~花散る永遠の愛~』©2017 H&R Century Pictures Co. Ltd. All Rights Reserved.)

皇帝・玄宗(685~762年)は、女帝・武則天(則天武后)の孫にあたる人物。唐を再興し、その最盛期をつくったことで名高いが、政権安定後は覇気を失い、政治にも倦んでしまっていた。そこに楊貴妃を迎えたことで、玄宗は色に溺れ、さらに骨抜きになっていく。

玄宗が外出するとき、そのそばには必ず楊貴妃がいた。楊貴妃が茘枝(ライチ)を好むと聞いて、南方から都・長安まで早馬で運ばせた。宦官を100名ずつのチームに分け、玄宗と楊貴妃が宮中で模擬合戦を行なった……といったように、楊貴妃は絶大な寵愛を受けたのである。玄宗の時代に活躍した政治家・楊国忠は、楊貴妃の「またいとこ」にあたる人で、彼が専横をきわめたのも、楊貴妃のコネであった。

皇帝の寵愛を後ろ盾に、栄華を誇る楊一族であったが、敵対勢力である安禄山(あんろくざん)がクーデターを起こす。755年、安史の乱である。玄宗は楊一族とともに逃亡をはかったが、その途中で兵たちは楊一族を見限り、彼らを次々と殺害。同行していた楊貴妃に対しても「皇帝を惑わせた元凶」「楊貴妃を殺せ!」と大騒ぎになり、死が望まれた。追い込まれた玄宗は臣下に無理強いされる形で、楊貴妃に自害を命じるに至ったのである。

どこへ消えたのか? 楊貴妃のなきがら

楊貴妃
(ドラマ『麗王別姫~花散る永遠の愛~』©2017 H&R Century Pictures Co. Ltd. All Rights Reserved.)

楊貴妃は少しも騒がず、「確かに、私は国の恩に背きました。死んでも恨みません」と言い残して腹心の宦官、高力士(こうりきし)の手を借り、首をくくったとされる。彼女の亡骸(なきがら)は郊外に葬られたが、のちに玄宗の願いで都の近くに改葬された。ただ、墓を掘り起こしたとき、紫の布団にくるまれていたはずの亡骸は見当たらず、ただ香を入れた袋だけが残っていたという。

実は、楊貴妃が処刑された場所は密室であり、その処刑の瞬間は誰も見ていない。よって楊貴妃は高力士の力を借り、逃がされて生き延びた、あるいは日本に逃れた・・・などという説が流布した。京都の泉湧寺(せんにゅうじ)には、楊貴妃観音像と呼ばれる仏像が安置されており、その伝説に拍車をかけている。

絶世の美女にして、栄華をきわめた楊貴妃。彼女のことは、死後も長く語り継がれた。その典型例として、楊貴妃が死んだ地で靴の片方が見つかり、それを手に入れた女性が料金を取ってそれを公開したところ、大勢の見物客が来て、女性は大金持ちになったという。

楊貴妃と三国志との意外なつながり

最後に、この楊貴妃三国志との意外なつながりも紹介しておこう。それは明の時代に作られた笑話集『笑府』の一編。ある男が、野ざらしの骸骨を見つけたので手厚く葬り、供養をしてやった。夜になり、男の家の戸を叩く者がいる。「誰だ」と聞くと「妃」(フェイ)と答える。それは楊貴妃で、「死んでから供養してくれるものがおらず、哀しく思っていました」と、供養してくれたお礼にきたという。男は絶世の美女と一晩をともにする幸せを味わった。

その話を聞いた隣の男。たいそう羨ましく思い、「よし俺も」と、そこらじゅうを探し回り、同じく野ざらしの骸骨を見つけ、供養してやった。すると、やはり夜に戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「フェイ」と答える。男は嬉々として扉を開けた。

「げえっ、張飛!」
(ドラマ『三国志 Three Kingdoms』©中国伝媒大学電視制作中心、北京東方恒和影視文化有限公司)

ところが、そこに立っていたのは、ひげボーボーの大男。なんと三国志に登場する張飛(張飛の「飛」はフェイと発音)だった……。美女に逢えるとばかり思っていた隣の男、さぞかし肝をつぶしたことだろう。実は張飛も非業の最期を遂げた人物で、ただの笑い話にするには、かなりトゲがあるのだが……。この逸話は日本にも伝わって落語『骨釣り』の題材にもなり、張飛の代わりに石川五右衛門がオチを担っている。
時代を超え、国境を超えて生きる中国四大美女の伝説。未来永劫、それは語り継がれるだろう。

【文:上永哲矢】

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