歴人マガジン

第7回「伊庭八郎、箱根山崎の戦いで左腕を失う!」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】


幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第7回のテーマは「伊庭の麒麟児」と呼ばれた隻腕の剣士・伊庭八郎です。慶応4年5月26日におこなわれた箱根山崎の戦いで片腕を失いながらも、幕臣として戊辰戦争を戦い続けた彼の生き様とは?

「伊庭の麒麟児」と呼ばれた伊庭八郎

義勇の人・伊庭八郎

伊庭八郎は、江戸下谷御徒町に心形刀流剣術の道場を開く幕臣伊庭軍兵衛の長男で、「伊庭の麒麟児」と呼ばれた剣客でした。加えて色白の美男でしたから、江戸の女性たちが放っておかないモテ男でもありました。

江戸時代の武士には珍しい「食通」としても知られ、元治元年(1864)に将軍徳川家茂を護衛して京都に上ったときには、京都で見物した名所や、口にした食べ物などをこと細かに記録した「征西日記」を残したことでも有名です。

何不自由なく気ままに生きている剣術道場の若旦那――。それが前半生の伊庭八郎のイメージでした。しかし、260余年続いた徳川幕府が倒れ、戊辰戦争が始まると、伊庭の運命は一変します。

新政府軍の威勢に降伏恭順する者が相次ぐなか、伊庭は旧幕府の遊撃隊を率いて徹底抗戦する道を選んだのです。その戦いぶりは、薩摩藩の名将・野津鎮雄をして、「幕軍さすがに伊庭八郎あり」と感嘆させるほどのものでした。

伊庭にはともに戦う頼れる同志が二人あり、一人は同じ遊撃隊の人見勝太郎。慶応4年(1868)3月、遊撃隊の本隊が戦意の乏しいことに不満だった伊庭は、この人見と語らい、30余人の隊士を引き連れて隊を脱走します。以後、この30余人が新生・遊撃隊として戊辰戦争を戦うことになるのです。

そして伊庭と人見が協力を要請したのが、上総請西藩主・林昌之助でした。まだ21歳の林は、新政府に対する戦意の旺盛な熱血漢で、初対面の伊庭たちとすぐに意気投合。藩主みずから70余人の藩士を連れて脱藩し、遊撃隊に合流したのです。
このときのことを林自身はのちに、

「伊庭は義勇の人、人見は智勇の人。二人とも立派な人物だと思ったから、これにおっかぶさったのだ」(『江戸』所収「林遊撃隊長縦横談」)

と語っています。二人と出会って間もないのにもかかわらず、自分の命を預けるにふさわしい者たちだと、林は瞬時に判断したのでしょう。

箱根山崎の激戦

遊撃隊はその後、相模、伊豆方面に渡って新政府軍の背後を突く作戦に出ます。安房館山から海路で相模真鶴に渡った彼らは、御殿場、沼津と転陣し、その間に勢力はさらに拡大して総勢275人となりました。

しかし、新政府軍はこの方面だけでも1000人近い大軍を擁していたので、戦力差は明らかでした。そんな状況下で5月26日、新政府軍先鋒の小田原藩兵と、伊庭が率いる遊撃隊の先鋒130人が小田原の南西の山崎で激突します。これが箱根山崎の戦いです。

午前10時頃から始まった銃撃戦は、初めは遊撃隊のほうが優勢でしたが、兵力に勝る新政府軍の前にしだいに劣勢をしいられるようになりました。人見勝太郎が援軍を要請するために、単身品川におもむいている間に戦闘が始まってしまったという不運も重なりました。

箱根の関所

そして夕刻、早川にかかる三枚橋付近で戦っていた伊庭を、敵の銃弾が襲います。腰を撃たれた伊庭は、思わずその場に尻餅をつきましたが、傷はそれほど深くはなく、まだまだ戦える状態でした。

しかし、敵の小田原藩兵・高橋藤太郎がひそかに近づき、伊庭に向かって白刃を振り下ろしたのです。この斬撃を伊庭はよけきれず、左手首部分を深々と斬られてしまいました。
盟友・林昌之助は、このときのことをこう証言しています。

「高橋藤太郎という者が、伊庭が腰に銃丸をうけて弱ったところを、うしろからきて斬りつけ、左の手首を切って落としたのだ。伊庭は、右手でその者を斬り殺したが――」(「林遊撃隊長縦横談」)

伊庭のすごいところは、敵に左手を斬られながらも、右手に持った刀で逆に相手を斬り倒したというのです。おそるべき胆力と、心形刀流の実力でした。
また伊庭の実弟の想太郎は、このときの伊庭についてこうも語っています。

「兄の八郎が敵に斬られながら、その敵を斬り倒しました時に、刀勢が余って岩を斬ったそうです」(『旧幕府』)

高橋を斬った刀が、勢いあまって地面の岩を斬ったというのです。斬ったというよりは砕いたということでしょうか。伊庭の斬撃のすさまじさが伝わってくるような気がします。

「競勢酔虎伝:伊場七郎」(月岡芳年 作)

復活する隻腕の英雄

伊庭の左手首は完全に切断されたわけではありませんでした。それでも骨が断たれていたため、当時の医学ではどうにもならない状態でした。
伊庭の従者・荒井鎌吉は左手首の状態について、こう証言しています。

「その晩は畑の宿へゆき、林さんのお医者が先生の腕首のブラブラしているのを切り落として血を止め、縛りつけなどしました」(『旧幕府』)

林昌之助に従っていた医者が、とりあえず伊庭の手首を切り落とし、応急処置をしたのです。ただ、これだけの治療しかできなかったのなら、あるいは傷口が化膿し、生命にかかわる事態になった可能性もあります。伊庭にとって幸運であったのは、このあと最先端の医療技術を持つ医師による本格的な治療を受けることができたことでした。

30数人の戦死者を出した遊撃隊は、一夜明けた5月27日正午頃から箱根を撤退し、午後8時頃に網代から海路出航。翌28日朝、安房館山に帰り着きました。このとき、伊庭らの負傷者は途中の品川沖で下船し、榎本武揚の指揮下にある病院船・朝日丸で治療を受けることになったのです。

朝日丸の医師・篠原はさっそく伊庭の左腕の患部を診察し、ひじから先を改めて切断して縫合するという判断を下しました。その手術のためには麻酔を使用することを篠原は勧めましたが、剛胆な伊庭は、

「他人が自分の骨を削ろうとしているのに、眠ってなどいられるか」(「伊庭氏世伝」)

といって拒否し、ついに手術は麻酔なしでおこなわれました。そして手術の間、顔色一つ変えなかったというのですから、伊庭はなんとも気丈な男でした。

実は伊庭にとっては、今後刀は右手だけでも使えるものの、鉄砲がはたして片手で撃てるのかというわずかな不安がありました。そこでまだ傷口も完全にふさがっていないのに鉄砲を持ち出し、左の二の腕に銃身を乗せて固定させ、右手で引き金を引いて実弾を撃ってみせたのです。
弾丸はみごとに的に命中し、それを見た伊庭は、

「俺もまだ使えるな」(「伊庭氏世伝」)

といって笑ったといいます。どんな苦境におちいっても決して絶望することなく、あくまでも前進しようとする伊庭八郎の強さには、私たちも学ぶべきところが多いのではないでしょうか。

 

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