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【大化の改新と乙巳の変】古代史のターニングポイントを知る!

【大化の改新と乙巳の変】古代史のターニングポイントを知る!

さまざまなゴロ合わせとともに「大化の改新=645年」と覚えた方は多いのではないでしょうか?しかし、正しくは645年に起こったのは「乙巳の変」とよばれる事件で、「大化の改新」は646年に発布された改新の詔をもとにした一連の政治改革を指します。

今回は、乙巳の変から大化の改新という、古代史における重要なターニングポイントについて、詳しくご紹介していきます。

蘇我氏を滅ぼした乙巳の変

天智天皇

中大兄皇子のちの天智天皇。

乙巳の変とは、蘇我氏の専横が頂点にあった時代に大臣だった蘇我入鹿を皇居内で斬殺し、その騒動ののちに軍勢を繰り出し、入鹿の父である蘇我蝦夷を自害させた政変のことです。

これにより、蘇我氏の権勢は一気に衰退し、蘇我氏宗家は滅亡することになります。変わって朝廷政治の実権を握り、皇太子となった中大兄皇子と内大臣の地位に就いた中臣鎌足は、皇極天皇の弟である軽皇子を即位させて孝徳天皇とし、大化2年(646)1月に改新の詔を発布。ここから、大化の改新という政治改革がスタートしました。

登場人物についておさらい

乙巳の変、および大化の改新に関わった人物の略歴を紹介していきます。

■中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
626年に、舒明天皇の第2皇子として誕生。母親は皇極天皇(後に再び即位して斉明天皇)、弟は大海人皇子(後の天武天皇)です。弱冠20歳にして乙巳の変で蘇我入鹿を討ち果たし、蘇我氏独裁体制を崩壊させた後、約20年間は皇太子として君臨。その後即位し、6年間を天智天皇として政治を司りました。

■中臣鎌足(なかとみのかまたり)
614年に、神祇伯(じんぎはく・朝廷の祭祀を行う官庁の長官)、中臣御食子の長男として誕生。幼少期から非凡な才能を開花させ、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を討ち果たします。中大兄皇子の政権では、外交と軍事を担当。のちに中大兄皇子から、内大臣の位と藤原の姓を賜りました。

■蘇我入鹿(そがのいるか)
生年不詳。645年7月10日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)内で暗殺されます。若くして父である蘇我蝦夷から、大臣の位と冠位十二階の最高位である紫冠を授けられ、国権の最高実力者となりました。

■佐伯子麻呂(さえきのこまろ)
生年不詳。中臣鎌足の推挙により、蘇我入鹿討伐に加わりました。暗殺の実質的実行者で、入鹿に最初に斬りつけたともいわれています。

■葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)
生年不詳。佐伯子麻呂同様、中臣鎌足の推挙により蘇我入鹿討伐に加盟。佐伯子麻呂とともに、入鹿に止めを刺したといわれています。

■蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)
生年不詳。蘇我入鹿の従兄弟に当たりますが、入鹿の専横を許せず、中大兄皇子に加担します。大化の新政権では、右大臣に就任しました。

なぜクーデターは起こったのか?

聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)とともに朝廷の政務を執っていた、蘇我馬子率いる蘇我氏は、聖徳太子の死後、その権力を強め、天皇の人事に介入するまでになりました。蘇我蝦夷から政治権力を委譲された蘇我入鹿は、皇極天皇の次期天皇に舒明天皇の第一皇子、古人大兄皇子を就けようと画策しますが、反蘇我勢力は、聖徳太子の子である山背大兄王を担いで対抗します。入鹿は政敵である山背大兄王を、軍勢をもって襲撃。斑鳩宮(いかるがのみや)で、聖徳太子の一族である上宮王家を滅ぼしました。

蘇我氏の増長に危機感を抱いた反蘇我勢力は、古人大兄皇子の異父弟である中大兄皇子と神祇官長官の息子である中臣鎌足を中心に、蘇我入鹿暗殺を計画。645年7月10日。飛鳥板蓋宮太極殿(あすかいたぶきのみやおおあんどの)でこれを実行に移し、入鹿を討ち取ります。翌日、豪族の多くが中大兄皇子側に参集するのを見た蘇我蝦夷は、自邸に火を放ち自害しました。これによって蘇我宗家は滅び、蘇我氏の独裁は終焉を迎えたのです。

大化の改新は政治改革だった!

中臣鎌足

中臣鎌足。のちに藤原の姓を賜り、藤原鎌足になります。

中大兄皇子や中臣鎌足が、蘇我氏の専横を止めるために乙巳の変を起こしたのは間違いありませんが、それ以外にも蘇我氏を打倒する理由がありました。それは、聖徳太子が端緒を開いた、天皇を中心とした中央集権国家の推進です。

この頃、天皇はまだ完全な世襲ではなく、多くの豪族の長という立場で、皇族の中で能力の高いものが継ぐという考え方でした。聖徳太子はこれを改め、民も土地も、全ては天皇によって統治されるという、中央集権国家の建設を目指しましたが、志半ばでこの世を去りました。唐へ留学した者や高僧、高度な教育を受けた豪族や皇族は、この中央集権国家を実現する必要性を感じます。彼らの熱望が根底にあったため、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼしても、大きな争乱になることなく、中大兄皇子を中心とする政権が即時に誕生することが出来たのです。

改新の詔

大化の改新は、大化2年(646年)1月に発布された改新の詔をもとにした一連の政治改革でした。改新の詔では、大きくわけて4つの方針を定めていました。

■公地公民の制
天皇や皇族、豪族が個々に支配してきた民や土地を廃止し、天皇家を長とする中央政府がこれを管理、支配する体制の樹立。実際には、豪族による所有は続き、政策は頓挫することになります。

■班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)
戸籍に基づき、豪族や民に田を預け、収穫から税を徴収して国の財政に当てる制度。

■租庸調制(そようちょうせい)
現代の国税、地方税にあたる制度。租は、田から徴収される税で、主に地方財源として使われました。庸は、正丁(せいてい・21歳~60歳の男性)および次丁(じてい・61歳以上の男性)に課された労役のことで、実際は布や米などの代用品で納め、衛士(兵士)や采女(宮廷女官)の人件費や公共事業の財源に使われていました。調は、正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)に課されるもので、繊維製品や地方特産物、貨幣などで朝廷に直接へ納入され、中央政府の官人(役人)の給与などに使われたそうです。

■国郡里制(こくぐんりせい)
日本の行政区を66の国にわけ、それを機内(現在の奈良県,京都府,大阪府)と七道(東海,東山,北陸,山陰,山陽,南海,西海)の地方に制定。地方は国・郡・里に編成されて国と郡に役所がおかれ、人民統制と税の徴収を行いました。

改革によって何が変わったのか?

乙巳の変により、朝廷政治の主導権を握った中大兄皇子は、自らは皇太子となり、軽皇子を即位させて孝徳天皇とします。左大臣には孝徳天皇の義父に当たる阿倍内麻呂、右大臣には乙巳の変で早々に中大兄皇子に加担した蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足、政権顧問としての国博士に高向玄理(たかむこのくろまろ)と旻(みん)を就任させ、体制を一新しました。この人事と政権運営により、各地方の豪族が民衆を直接支配する土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、聖徳太子が提唱した、天皇を中心とする律令国家建設を目指すことになります。

重要な意味を持つ政治改革

聖徳太子

聖徳太子。彼の提唱した律令国家建設を目指しました。

乙巳の変以降、地方に国司(中央政府の行政官)が派遣され、朝廷による地方支配が強化されます。阿倍比羅夫を東北へ派遣し、蝦夷を討伐すると、朝廷の支配権は日本全土に拡大しました。662年には、白村江の戦いに敗れたのを契機に、大陸との境界にあたる筑前や対馬に水城を造ります。防人や烽火(ほうか)の設備を各所に設置し、国土防衛と国内体制の確立に重点がおかれ、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となると、全国統一の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、671年には日本初の律令法典である近江令を施行しました。天智天皇亡きあとは、弟である天武天皇が即位します。兄の意思を継ぎ、中央集権国家体制の推進に尽力しました。

このように、乙巳の変からはじまった大化の改新は、日本の国家体制が中央・地方の豪族による連合統治体制から、朝廷による天皇中心の中央集権国家へ大きく変化した重要なターニングポイントだったのです。

 

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