歴人マガジン

【苦難を乗り越えて…】知られざる会津藩士と余市リンゴの物語

北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第5弾は、旧会津藩士たちの知られざる「余市リンゴ」にまつわる物語です。


全国的に知られるようになった余市のリンゴ。これは明治初期、故郷を追われ、雪辱の思いで北海道へ渡ってきた旧会津藩士の人々が作り始めた事に端を発します。「余市のリンゴ侍」と呼ばれた旧会津藩士たちの、忠義に燃える心とリンゴにかけた情熱が余市のリンゴの名を全国に知らしめました。

130年の時を超えて

「松平の殿様が、われらの為にこの余市に来て下さった。ありがたい、本当にありがたい。これで、ご先祖様の忠義にも報われたというものだ・・・」

昭和59年6月18日。余市町長をはじめ、会津ゆかりの人々に迎えられ、松平勇雄福島県知事が余市を訪れました。明治維新の時、自分たちの殿様である会津藩主・松平容保の命と引き換えに、家臣たちは北海道行きを余儀なくされ、余市に渡ってきました。それから130年、かつての家臣だった子孫の胸にも、万感迫る思いがありました。感涙にむせぶ会津藩末裔の人々・・・。知事も語る言葉がつまります。

「私は、徳川御三家に次ぐ、誉れ高き会津藩主・松平容保の孫として、やっと・・・やっと皆さんにお会いできました。この私の命があるのも、皆さんの祖先である藩士の方々が、自分の命を差し出して、守り抜いてくださったからです。本当に、本当にありがとう・・・」

声を殺して涙する者、流れ落ちる涙を拭いもせずに聞き入る者。忠義の思いだけで渡った北海道。二度と戻ることのできないふるさとの会津を偲び、賊軍という汚名を着せられながらも、日本一と言われるまでに育て上げたリンゴ園。長く険しかったイバラの道が、まさに報われた瞬間でした。

故郷を追われた会津藩士たち

時は明治2年。薩長を中心とする新政府軍と徳川家家臣団による旧幕府軍の間で起きた戌辰戦争は旧幕府軍の大敗に終わり、賊軍となった会津藩士の人々は、新政府から辛い要求を突きつけられます。

「藩主である松平容保の命は助ける。その代わり会津藩士は会津を出て行き、北海道へ渡れ。入植地は余市とする。そこでの開墾を命ずる」

「殿のお命は本当に救われるのか。ならば我らは何でもする。どこへでも行く。元々この命、わが殿にもお預けしたものだ。殿のためならば胸を張って蝦夷へ参る」

明治4年7月。会津藩士169戸600人は、余市川西岸の山田村と、対岸の黒川村に移り住みます。藩士たちは、刀を斧や鍬に持ち替えて、うっそうと茂る大木をなぎ倒し、わずかな農地を切り広げていきます。慣れない伐採に疲れ果て、大木の根元で気を失う者までいたほどです。住まいは5軒続きの粗末な長屋。体を寄せ合うように暮らしては、飢えと寒さを堪え忍びました。一途な忠義の思いだけが、彼らを過酷な労働にも立ち向かわせたのです。それを支える藩士の妻たちは、わずかにとれた大豆や菜っぱを持って、ニシン漁にわく海辺へと売りに行きました。しかし、町の人々は、会津藩士を新政府に負けた「降伏人」と呼び、武士の風上にも置けぬ腰抜けとして扱ったのです。たとえ亡くなる者があっても、「逆賊」である彼らは、寺で葬式も出してもらえず、自分たちで死者を弔うしかありませんでした。

「誉れ高い会津の武士はこんなことで絶対に負けるわけにはいかん。どんな苦しさも、我が殿のため。お家再興の為ならば、この命削ってでも・・・」

悔しさと惨めさで幾度となく涙がこぼれます。しかし、彼らは決して誇りを捨てることはありませんでした。何より忠義と礼節を重んじ、文武両道に生きる会津藩士は飢えを満たす作物よりも先に、学校と武道場を造り、会津魂である武士の誇りを貫いたのです。

会津若松市にある會津藩校 日新館。旧会津藩士たちが黒川村に設立した学校は「日進館」と名付けられました。

余市のリンゴ侍

入植から4年が過ぎた明治8年4月。学校では農業に関する学問を行い、武道場で体を鍛える会津藩士たちは、持ち前の研究熱心さと、もくもくと開墾に励む姿を買われ、開拓使から446本のリンゴの木が託されます。この苗木は、当時開拓次官であった黒田清隆によって、道内各地へと試験配布されたもので、それぞれの土地の適正を図るためでもありました。

「いつ実るかわからぬ果樹だが、見よう見まねで庭の隅にでも植えてみるか」

あまり期待もせずにいたリンゴ栽培。世話の仕方も分からず、枯らしてしまう者が続出しました。日々の暮らしにも追われ、リンゴのことをすっかり忘れかけていた頃・・・。

「なぁ、山田村の源八さんの畑さ、リンゴが実をつけたそうじゃ!赤ーく色づいて、そりゃあキレイな実っこだそうじゃ」

明治12年秋、人々は山田村の赤羽源八の畑へと急ぎました。まだまだ若木の華奢な樹木に、乙女が恥じらうような赤い実が7つ。人々が固唾を呑んで見まもる中、源八は震える手で薄紅のリンゴをもぎ取りました。ほのかに漂う甘い香り・・・。手のひらで感じる重みと感触が次第に喜びへと変わっていきます。そして一口がぶっと、かじりました。

「んー・・・うまいリンゴだぁ・・・こったら寒い土地でも、こんなリンゴがなるんだぁ」

近海を流れる温暖な対馬海流と、昼は高温で夜は涼しいという寒暖の差が、余市リンゴに豊かな果汁と、糖度の高さをもたらしました。

「余市に移り住んできた会津侍の畑で、リンゴが実ったそうだ」

このニュースは快挙として近くの村々まで伝わり、会津の人々の空しい毎日に光が差し込みます。

明治13年。札幌の農業仮博覧会に、余市のリンゴを参考品として出品。人々は西洋の香り漂うリンゴの登場に喝采を送りました。それまでは、柿や梨しか知らない本州の人々にとって、「初の国産リンゴ」は宝石のように貴重な存在となったのです。

「よし、これからはリンゴを作ろう。きっとこれは、将来この村を助ける作物になるに違いない。リンゴのことをもっと研究して、収穫量を増やさねば・・・」

会津若松に生まれ、父とともに故郷を追われた小栗富蔵は、16歳にして余市に移り住みました。故郷では、同年代の若者たちが白虎隊として死んでいくのを見てきたのです。

「自分は生き延びてしまった。そしてこの余市に来た。この戦いで死んでいった仲間のためにも、俺はこの命を投げ捨ててでも、村のみんなのために尽くさればならんのだ」

リンゴ栽培に活路を見いだした富蔵は、村の若者たちにリンゴ栽培を積極的に薦め、リンゴの特性や農業技術の向上のために、自ら札幌にある官営の果樹園に出向いて勉強しました。もともと我慢強くて研究熱心な会津人です。余市リンゴの作付け面積はみるみるうちに伸び、収穫量も安定するようになっていきました。

「会津から来た、余市のリンゴ侍たちは、なんだか腕がいいそうだ!」

そんな噂が各地に広まり、札幌や小樽から商人がやってきては、糸目をつけずに買い占めていきます。青森産を超える品質の高さは会津魂の証。会津のリンゴ侍たちは、誇りを取り戻しつつありました。

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