歴人マガジン

【苦難を乗り越えて…】知られざる会津藩士と余市リンゴの物語

日本一となった余市リンゴ

明治26年、それまで道内販売の多かった余市リンゴは、初めて船に乗って東京市場へと出荷されます。文明開化で近代化著しい東京でも、リンゴは高級な輸入品。たった20箱の余市リンゴは、瞬く間に高値で取引されました。

「よいか、東京じゃ、わしらのリンゴは貴重品だ。手練手管の商人たちに叩かれても、決して安売りするんじゃないぞ」

富蔵は、栽培技術においても商売においても優れた人物で、東京・札幌・小樽の情報を仕入れては仲間に知らせ、いつの間にか農家をまとめる存在となっていました。明治30年から始まったロシア・ウラジオストックへの輸出では、富蔵の指導のもと、仲買商人を通さず自分たちが直接販売をしました。青森産よりも保存に強い余市のリンゴは市場を独占し、通常の3倍で取引されました。

そして、我が国の輸出リンゴの80%を占めるまでになったのです。思い切った富蔵の判断が、貧しさを極めていた農家の生活を潤し、石蔵を建て、新築の洋館に住む者まで現れたのです。会津の武士が余市に入植してから30年、やっと手に入れた幸せでした。

そんな明治35年、夏のある夜・・・。

「おや、雨でも降ってきたか?さっきまで星が出ていたはずなんだが・・・」

妙な雨音のような音を不思議に思った富蔵は、灯りを手に畑へと出ました。

「うあ~っ!虫だぁ~!。なんてこった。これじゃ、リンゴが全部食われてしまう・・・」

何千、いや何万もの尺取り虫が音をたててリンゴの葉を食べているのです。富蔵は灯りを灯しながら周囲のリンゴの木を駆け足で回りましたが全滅でした。この害虫被害は富蔵の畑だけに留まらず山田村・黒川村のほとんどが一夜にして壊滅状態となったのです。小栗富蔵50歳。余市まで鉄道が開通し、これから・・・という時に村を襲った突然の悲劇でした。さすがの彼らも打つ手がなく、たちまち暮らしは行き詰まり、リンゴをやめて他の作物にする者や多少儲けたお金で離農してしまう者まで現れました。

「このままでは、リンゴはおろか、30年かかって、せっかく作り上げてきたこの村がバラバラになってしまう。俺たちの苦労が水の泡だ」「本当に打つ手はないのか・・・俺たちのやるべきことは、まずは敵を知ることだ。そうやって会津の武士は長い間戦ってきたんだ。害虫の専門家を呼ぼう。そして研究しよう」

ロシア貿易に販路を開き、リンゴ同業組合長となっていた富蔵は、ひと足先に害虫対策に乗り出していた高山吉五郎と奔走します。秋田県出身の高山は12歳年上の富蔵を兄のように慕い、絶対の信頼を寄せて、この苦難に立ち向かいました。彼は、札幌の農事試験場の技師を自宅に住まわせ、農作業を遅らせてでも、害虫駆除の農薬散布の研究に明け暮れました。

石油を使ったもの、石灰や硫黄を用いたもの。ありとあらゆる害虫へ、その効果を試したのです。しかし、虫への効果は見られても、肝心のリンゴまで痛めてしまいます。微妙な加減に左右される実験は難航を極めました。

「だめだ、だめだ!これじゃ、せっかくのリンゴが死んでしまう。薬が強すぎるんだ」

肥沃な大地の栄養分を十二分に吸って、リンゴは美味しく育ちました。そして30年。この大地が痩せて弱ってしまっていたのです。今までだって害虫はいたはずです。しかしリンゴ自体の生命力が害虫に打ち勝っていたのです。

虫の被害で弱った木には、追い打ちをかけるように病気が流行りはじめました。富蔵は、害虫対策を高山にまかせ、自分はリンゴの生命力を生き返らせるため肥料の研究を始めます。

「今まで、土地の豊かさに甘え、何の肥料も与えてこなかった。失われた会津武士の名誉を回復することばかりを考えていたんだ。富と名声をくれたこのリンゴたちには、何も返してやらなんだ・・・」
「今こそがリンゴ栽培の正念場じゃ。命の恩人に報いる時じゃ」

礼節を重んじるは会津の心。忘れかけていた会津魂が沸き上がってきます。小栗富蔵は研究に研究を重ね、堆肥や魚粕を使った肥料を考案。樹木そのものに体力をつけることを一心不乱で取り組みました。

時を同じくして、高山吉五郎が散布テストに成功。「札幌合剤」と名付けられた農薬は、効果覿面でした。さらに、農薬からリンゴの実を直接守る三角袋も考案し、病害虫への対策を万全なものにしたのです。自信をつけた彼らは、農家を一軒一軒まわって指導にあたり、見る影もなく弱り切ったリンゴの木に、命を吹き込んでいきました。たった1軒の農家が被害を出しても、隣の農家に飛び火します。富蔵たちの指導を受けた人々は、一枚岩となって病害虫に取り組みました。研究を始めて早10年。時代は大正へと移り変わっていました。

「余市のリンゴ農家は筋金入りの強者揃いだ。あれだけの被害を乗り越えたんだからな。さすが会津の人々だ・・・」

この噂は瞬く間に広まって、全国に技術力の高さを知らせる結果となりました。最大の危機を逆手にとり、追い風に乗った彼らは、山田村に北大農学部の果樹園を誘致。剪定などの技術や品種の改良にも力をいれるようになります。加えて、抜群の人気を誇る余市産の「緋之衣」は、リンゴの中でも枝振りが大きく、色・風味・外見ともに「リンゴの王様」として扱われ、大正3年には、東京で開かれた拓殖博覧会で、堂々の一位入賞を飾ります。色の点で青森産に一歩譲っていた余市のリンゴが、日本一の栄誉に輝いたのです。

この知らせに、余市の人々は沸きました。滅多に使うことのなかった故郷の会津塗りの器を出し、思い出を語りながら夜明けまで酒を汲み交わす会津の人々。目を閉じると、遥か懐かしい鶴ヶ城の面影が浮かんできます。

鶴ヶ城(会津若松市)

苦難の日々を乗り越えて

大正15年10月。会津の誇りを貫いて、人々を成功に導いた小栗富蔵は、73歳の生涯を余市で閉じました。その後、旧会津藩士の人々が、人生をかけて作った余市リンゴ「緋之衣」は、40年もの間、天皇皇后両陛下や皇族への献上品となり、最高級リンゴとして大切に扱われました。今や、献上リンゴを作る彼らには、朝廷に背いた逆賊という汚名はありません。日露戦争での好景気、ロシア革命による輸出の暴落、第二次世界大戦後のリンゴ復活・・・。幾度となく押し寄せる大きな波にも、みんなで力を合わせて乗り越え、余市リンゴの名を残してきたのです。

昭和59年6月18日。日本一の品質を誇る余市リンゴが、旧会津藩士の手によるものだと知った福島県知事・松平勇雄は、遠く彼らを慕って余市を訪れました。屈辱の思いで余市に渡って130年目の再会。かつての殿様と言葉を交わす栄誉に、村の人々は時の経つのも忘れました。

「会津の殿様が来てくださった。ありがたや、ありがたや・・・」

「かつての藩主・松平容保の孫である私が、祖父に成り代わって参りました。そして、この地を訪れたという証に、この開拓記念碑の隣りへ植樹を致します。どうか、先祖である家臣の方々と、その末裔の皆さん。松平一族が感謝の心でいることを、いつまでも忘れずにいてください」

知事は、記念碑の横に一本の櫟の木を植え、何度も何度も土をならしては胸に迫る思いを噛みしめるのでした。

今でも、一世を風靡した「緋之衣」は、余市のいくつかの観光農園で手に入れることができます。

会津藩士ゆかりの開拓記念碑は、今もなお松平公の櫟とともに、余市町黒川町7丁目に会津の人々の魂を讃えて建っています。

 

(出典:「第五集 ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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