チャンネル銀河で2018年6月18日(月)より放送をスタートする大河ドラマ「独眼竜政宗」。今回は、そのドラマをさらに面白く楽しんでいただけるよう、東北の雄・伊達家のルーツについてご紹介したい。
知られざる政宗のご先祖の出身地は?
伊達家といえば仙台。現在の宮城県仙台市にある、あの政宗のかっこいい騎馬像が建っている青葉城こそが「伊達の本拠地」という印象を持つ人が多いと思う。しかし、それは江戸時代(1600年代)に入ってからのこと。伊達家の本拠地は元々、現在の福島県にあった。上の図を見てほしい。その名も「伊達郡」といい、現在でも福島県伊達市という地名が残っている。この伊達郡というのは、陸奥国・信夫郡(しのぶぐん)の一部だったところで、10世紀の初めに行なわれた郡の分割によってできた土地である。
源平合戦が終わり、鎌倉時代になると、この地は奥州藤原氏に仕える佐藤一族が統治していた。まだ「伊達氏」の誕生前のことだ。文治5年(1189)夏になると、源頼朝は奥州藤原氏を討つため、大軍で奥州へと攻め寄せた。伊達郡はその争乱の舞台となり、両軍の激しい戦いが繰り広げられた(石那坂の戦い)。
そして結果は鎌倉方の頼朝軍が勝利し、奥州藤原氏は滅亡へと追い込まれていくわけだが、この合戦で活躍したのが、常陸(ひたち)伊佐郡出身の御家人・伊佐念西(いさ ねんさい)という人物。頼朝は戦後、伊達郡を念西に与え、統治させる。やがて念西は姓を領地からとって「伊達」と改め、さらに名前も朝宗(ともむね)と改めたという。これが初代・伊達朝宗の誕生であり、「奥州伊達家」の起こりと伝わる。(※)
※『伊達正統世次考』『福島県史』より。念西=伊達朝宗への改名は一説であり、別人とする異説もあります。出身地は下野(栃木県)中村荘との説もあります
伊達家の祖先は関東の常陸国(茨城県)出身で、元の姓は伊佐氏だった。その伊佐氏が奥州合戦の功で、陸奥の伊達郡を得て初めて「伊達」と名乗った。つまり、政宗は坂東武者(関東生まれの武士)の血を引いているのである。
転々とした本拠地と、もうひとりの「政宗」
伊達郡に入る前の伊達一族(伊佐一族)は、常陸国伊佐郡(現在の茨城県筑西市)の伊佐城を拠点にしていた。その後、伊達郡を得てからは、その中心部の高子岡館(たかこがおかだて=福島県伊達市保原町)に本拠地を置く。3代目・義広のころに粟野大館(福島県伊達市梁川町粟野)へ移転した後、さらに梁川城(福島県伊達市梁川町鶴ケ岡)に拠点を移した。
時代は南北朝へ変わり、第8代・伊達宗遠(むねとお)は、西に隣接する出羽国(山形県)の置賜郡(おきたまぐん)を治める長井氏を攻撃。1380年、置賜郡を奪い取った。この時に高畠城(山形県東置賜郡高畠町)を新たな拠点としたのが、第9代・伊達政宗(まさむね)である。よく知られる独眼竜・政宗の8代前にあたる先祖だ。当時、政宗たち東北の権力者は、関東を支配する鎌倉公方らと対立していた。やがて、領土を明け渡すよう脅してきた関東方の要求を拒み、大崎氏らと手を組んでこれに対抗し、領地を守り抜いた。
先代の政宗が守り抜いた置賜郡には、のちに独眼竜・政宗が誕生する米沢城の土地も含まれていた(※)。先代・政宗の没後、戦況の悪化から、再び拠点が伊達郡の大仏城、梁川城に戻されたが、第15代・伊達晴宗は1548年、置賜郡の米沢城を大改修し、城下町を構えて新たな拠点とする。この米沢城で、晴宗の孫・政宗が誕生するのはそれから20年後の1567年のことだ。政宗は引き続き、米沢城を拠点として使い続けるが、1589年に蘆名義広を破り、黒川城(現在の会津若松城)を拠点とする。しかし、天下統一目前の豊臣秀吉の命で、2年後に岩出山城へ移され、「関ヶ原の戦い」後、仙台を本拠地にすることになる。
※最近では、政宗の誕生地は米沢城よりやや西にあった舘山城という説もあります
政宗は、なぜ失明したのか?
上で述べたように、伊達政宗は永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として誕生した。母は輝宗の正室・義姫(最上義光の妹)だったから、現在でいえば福島県民の父と、山形県民であった母の間に生まれた子である。
幼名は梵天丸。10歳の時に元服して「藤次郎政宗」と名乗った。藤次郎が通称(公の場で名乗ったり呼ばれたりする名前)、政宗は諱(いみな=本名)である。先にも登場した伊達家中興の祖、第9代当主・政宗にあやかって名づけられた。
「独眼竜」の異名で知られるように、政宗は幼いころに右目を失明して以来、生涯にわたって隻眼であったという。なぜ右目を失ったのか、明確な理由や病名についての記録はない。その症状から、疱瘡(天然痘)と推測されている。天然痘とは感染症の一種で、当時は非常に致命率が高く、治癒した場合でもひどい瘢痕を残した。皮膚に感染した場合は痘痕(あばた)になるし、眼にできてしまえば失明するものだった。ワクチンが普及する江戸末期まで、日本人の失明原因のほとんどがこの感染症だったという。
トレードマークの眼帯、実際はしていなかった?
よく語られる話として、政宗の右眼の視力は失われ、しかも眼球が大きく飛び出していたので、彼はそれをひどく気に病んでいたという。それを見かね、側近の片倉小十郎が小刀で飛び出ていた眼を抉り取ったという幼少時のエピソードがある。近年、発掘された政宗の頭部遺骨の目の部分にそのような痕跡はなかったことから、このエピソードは否定されがちだ。しかし、眼球だけを切り出したのであれば、遺骨にその痕跡が残っていないとしても不思議ではなさそうである。
政宗のトレードマークとしてもおなじみの眼帯だが、江戸時代に描かれた本人の肖像画などには、一切描かれていない。また、遺品にもそれらしきものは見当たらないので、実際には装着していなかったようだ。眼帯をつけた政宗のイメージ像が最初にできたのは、太平洋戦争中の1942年に公開された大映映画『獨眼龍政宗』(監督・稲垣浩、主演・片岡千恵蔵)であるが、眼帯をつけないシーンも多かったそうだ。しかし、それ以降、大衆ヒーローとして政宗は人気者となり、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で渡辺謙が演じてからは、一躍眼帯姿の政宗像が広まった。現在の映像作品では、キャラクター付けという観点からも眼帯なしの政宗は考えられないようになっている。
知る人ぞ知る?「独眼竜」の誕生秘話
最後に、「独眼竜」のあだ名について。これは江戸時代後期の学者・頼山陽(らい さんよう)が名付けたものだ。1823年に詠んだ漢詩「多賀城瓦研歌」の中に「河北(東北)ことごとく独眼竜に帰す」という一句がある。頼山陽は中国史に通じ、中国の史書『新五代史』『十八史略』などに登場する李克用(りこくよう=856~908)が「独眼龍」と呼ばれていたことから、政宗を彼に重ねて詠んだのである。
李克用は唐の時代に活躍し、隻眼(片方の目が不自由)ながら装束を黒に統一した軍勢を率いる名将として恐れられた。このあたり、同じ隻眼で漆黒の具足を愛用した政宗にも重なる部分がありそうだ。政宗は、若くして中国の史書にも親しんでいたので、李克用のことや、彼が「独眼龍」と呼ばれていたことは知っていたかもしれない。彼自身が生前に「独眼竜」と呼ばれた記録はないが、書状を作成するのに龍の印版を使ったことがあった。
ほかに隻眼の武人としては『三国志』に登場する夏侯惇(かこうとん)、カルタゴの将軍・ハンニバル、日本の山本勘助などがいる。しかし、「独眼竜」は李克用と伊達政宗だけに与えられた異名といえそうだ。
文・上永哲矢
大河ドラマ「独眼竜政宗」がチャンネル銀河で放送スタート!
放送日:2018年6月18日(月)放送スタート 月-金 午後2:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=1790
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