歴人マガジン

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【「死の商人」か「世紀の大商人」か】真実の大倉喜八郎とは?

2018年は明治元年から150年となる節目の年。これを記念し、明治時代に活躍した起業家たちを紹介する連載「明治の企業家列伝」がスタート。第1回は、大成建設の創業者・大倉喜八郎です。


日比谷公園の道をはさんだ一帯は、東京宝塚劇場、帝国劇場に加え、今年オープンしたばかりの東京ミッドタウン日比谷などを中心に、華やかな街がひろがります。中でも目を引くのはやはり重厚なたたずまいの帝国ホテル。外資系ホテルの進出が目立つ昨今でも、憧れのホテルとしての存在感を放っています。今回はその帝国ホテルをはじめ、帝国劇場、鹿鳴館の設立など、多くの事業にかかわった実業家・大倉喜八郎(1837~1928年)の生涯にせまります。

大倉喜八郎

黒船を見て鉄砲商を開業 やがて軍用商人に

大倉喜八郎は、1837(天保8)年に越後国蒲原郡新発田町(現・新発田市)に父・千之助、母・千勢子の三男・鶴吉として生まれました。喜八郎は尊敬していた祖父の名をもらい、23歳の時から名乗り始めた名前です。大倉家は農業を営んでいましたが、祖父の代からは質屋を家業としていました。幼い喜八郎は四書五経や漢籍・習字などを学び、特に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けるようになったと言われます。成長した喜八郎は江戸に出ることを決意します。

1851(嘉永4)年、江戸に出てきた喜八郎は、日本橋長谷川町(現・日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、その社中に入りました。喜八郎は幼いころより狂歌の趣味があり、その縁を頼ったのです。ここで、塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店に丁稚として奉公しました。この時に親交を持ったのがのちに安田財閥を設立する安田善次郎でした。

1857(安政4年)年には奉公中に貯めた100両を元手に「乾物店大倉屋」を開業して独立しましたが、横浜で見た黒船に感銘を受けた喜八郎は何かを感ずるところがあったのか乾物屋を廃業、1866(慶応2)年に小泉屋鉄砲店に見習いに入りました。そして数カ月の見習い後、翌年には早くも「鉄砲店大倉屋」を開業して独立。大倉屋はそののち官軍御用達となり、やがて鉄砲のみならず、兵器糧食にわたるまでの調達を命じられるまでに成長しました。

さらに商いは順調に続き、1881(明治4)年には鉄砲火薬免許商として、不要武器の払い下げを受けています。さらに台湾出兵の征討都督府陸軍用達、西南戦争での征討軍御用達、日清・日露戦争では軍用達となるまでに至りました。「富国強兵」「殖産興業」という当時の政策の強力な支えとして大倉喜八郎の事業は役立ち、国とともに大きく発展したのです。

実業家としての才覚を発揮

銀座街道の様子(明治44年撮影)

明治新政府設立以降、喜八郎は鉄砲商としてだけではなく、本格的な実業家としての道を歩み始めます。最初に手がけたのは、1981(明治4)年の新橋駅の工事でした。また、翌年には「銀座大火」によって焼失した銀座の復興工事の一部を担います。この時の工事によって誕生したのが煉瓦街とガス灯で知られる「商店街一号」銀座です。この年には当時ではめずらしかった海外視察にも出かけており、帰国後には大倉組商会(現在の大成建設)を設立しました。これがその後の事業の基礎となる組織です。

また、1991(明治14)年には鹿鳴館を設立しました。土木の実績のない大倉組が多くの依頼を受けたのは、鉄砲商としての実績があったためだと考えられます。さらに、1878年には 渋沢栄一らと東京商法会議所(のちの東京商工会議所)を設立し、実業界のトップとして大きな力を持つようになりました。

政商か、はたまた死の商人か!? 戦争とともに事業規模を拡大

日清戦争

喜八郎は国内で多くの事業を成功させましたが、その目は常に遠くを見ていました。大倉組商会を設立直後にロンドンにも大倉組商会倫敦支店を設置しています。これは、日本企業では初の海外支店でした。また、日朝修好条規が締結するやいなや、釜山浦支店を設置しています。さらに、上海、天津、ニューヨーク、台北、メルボルン、シドニーなどにも大倉組商会は支店や出張所を設けるに至ります。当時ではなかなかめずらしい展開規模で、グローバル企業の元祖ともいえるのではないでしょうか。

このように世界中に拠点を置き、活躍の場を広げていた喜八郎でしたが、批判もありました。鉄砲商で成功し、その後も軍需で重用されたことから、大倉組はしばしば「政商」「死の商人」と呼ばれました。日本が日清戦争、日露戦争の「戦後経営」で産業革命を遂げ国力を増したように、大倉組も戦争とともにますます規模を拡大してゆきます。しかし、喜八郎の夢は戦争で会社を大きくすることではなく大陸の開発にあり、製鉄所(南満州の本渓湖媒鉄公司[ほんけいこばいてつこんす]、1910年)を設立したり、炭鉱を開発したりしています。喜八郎にとっては、戦争で勝ち取った地域を開発することが戦死者への供養だったのです。

一方で、喜八郎は張作霖(ちょう・さくりん)の率いる軍閥との合弁会社を設立したり、辛亥革命を応援したりするなど政府の意に介さない事業も行いました。辛亥革命では革命政権から300万円の融資を求められた政府の代わりに、300万円を融資しています。この時、300万円を用立てたのは若いころからの盟友・安田善次郎でした。

大倉喜八郎は決して「政商」でも「死の商人」でもありません。彼は自分の商魂を武器に、大陸との共存共栄を目指し、開発を進めた人物だったのです。

山ほど事業を手がけるも… ●●だけには手を出さず

帝国劇場(明治45年撮影)

大倉喜八郎は、驚くほどたくさん事業に関与したことで知られています。あらゆる業種にかかわっており、わたしたちも日々どこかで知らずに触れているかもしれません。

【大倉喜八郎がかかわった主な事業】
1886(明治9)年 東京電燈会社創設
1887(明治20)年 日本土木会社を設立(一部は現在の大成建設の前身に)、株式会社帝国ホテル創設
1906(明治39)年 大日本麦酒
1907(明治40)年 帝国劇場株式会社
1907(明治40)年 東海紙料株式会社(現在の東海パルプ)
1908(明治41)年 日本化学工業株式会社
1908(明治41)年 山陽製鉄所(現在の山陽特殊製鋼)
1918(大正7)年 日清豆粕製造株式会社(現在の日清オイリオ)
1920(大正9)年 日本無線電信電話を創設。

また、関東大震災をきっかけに1927(昭和2)年には大倉火災海上保険(のちの千代田海上火災保険)を設立しています。まさに、機を見るに敏な人物だったのです。

世の中には大財閥をつくった実業家は多く存在しますが、これほどにさまざまな業種に手を広げた人物はほかにいないでしょう。ただし、ほかの財閥とは異なり、銀行だけには手を出しませんでした。喜八郎は「借金をして商売をする」ことが性に合わないと常々口にしていたといわれています。これは世界を股にかけて商売をする人間としての、プライドだったのかもしれません。

大学や美術館も 残したのは財だけではない「メセナ」の元祖

現在の帝国ホテル

喜八郎は実業だけではなく、教育にも力を入れていました。後進の育成のため、1900(明治33)年、当時の赤坂葵町(現在のホテルオークラ隣接地)に大倉商業学校(現在の東京経済大学)を創設しました。財を成すだけではなく、人も育成することで国家の役に立とうとしたのでした。

また、大正6年(1917)に日本で最初の私立美術館と言われる大倉集古館をつくりました。1923(大正12)年の関東大震災で建築物、陳列品が遺失してしまいましたが、1928(昭和3)年に再度開館し、現在も東洋美術を中心に、人々が美術に触れる機会を与え続けています。実業家が資材を投じて美術品などを蒐集し、文化に寄与する「メセナ」的活動は現在ではめずらしくありませんが、喜八郎はその元祖であったといえるのではないでしょうか。

大倉喜八郎の残した場所といえば、やはり帝国ホテルでしょう。初代の帝国ホテルは1922(大正11)年に失火のため消失し、フランク・ロイド・ライトが設計した有名な建築は2代目にあたるものです。ライト設計の帝国ホテルは老朽化のため1967(昭和42)年に取り壊され、玄関部分のみが愛知県の博物館明治村に移築されました。しかし、オールド・インペリアル・バーなど、一部ではいまでも壁画やテラコッタを通して当時のありようを伺うことができます。

事業を起こし、街をつくったたぐいまれなる実業家、大倉喜八郎は「戦争商人」との批判も多く、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物でした。しかし、多くの事業を重ねた彼の夢と実直な商魂が形にしてきたものに、現代を生きるわたしたちはどこかで触れているといえるでしょう。

1928年、満92歳で喜八郎はこの世を去りますが、死の2年前に喜八郎は南アルプスに登山しています。世界を見つめ、世界で仕事をした男は晩年、山の上で何を感じたのでしょうか。さらなる冒険の野心を、広い空を見つめながら燃やしていたのかもしれません。

 

参照サイト:
大倉喜八郎の足跡を追う(東京経済大学)
大倉集古館の沿革(大倉集古館)

※画像出典:国立国会図書館

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