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第9回「勝海舟が学んだ長崎海軍伝習所とは何か?」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】


幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第9回のテーマは「長崎海軍伝習所と勝海舟」です。安政2年(1855)7月29日、幕府は勝海舟に長崎海軍伝習所での修行を命じました。勝海舟をはじめ、幕末・明治期に活躍した俊才たちが学んだ長崎海軍伝習所とはどのような場所だったのでしょうか。

オランダの勧めで設立された伝習所

長崎海軍伝習所の成り立ちとして特筆されるのは、それがわが国の主導で設立されたのではないということでした。オランダが、「日本は海軍を創設し、士官を養成するための学校を設立すべきである。そのためにオランダは力を貸す用意がある」と提案してきたのが発端だったのです。これに応じる形で、長崎海軍伝習所は創設されたのでした。

オランダは驚くほど親切で、自国の海軍軍人20余人を教師団として派遣し、軍艦観光丸(原名スームビング号)を練習船として日本に贈りました。「貸与」ではなく、「贈呈」だったことにも驚かされます。

なぜオランダがこれほどまでに好意的だったかというと、当時、アメリカ、イギリス、ロシアといった外国勢力が盛んに日本に接触を求めてきており、古くから日本と交流のあったオランダとしては、自らの存在価値を改めてアピールしておく必要があったからでした。

そうして安政2年(1855)7月、幕府は長崎に海軍伝習所を設立することを決定し、同月29日に永井尚志を諸取締(所長)、勝麟太郎(海舟)を生徒監(修行生代表)とする辞令を交付したのです。勝は身分の低い旗本でしたが、この長崎派遣によって出世のチャンスをつかむことになります。

生徒監はほかに矢田堀景蔵、永持亨次郎の二人、伝習生として中島三郎助、小野友五郎、春山弁蔵ら合計30余人の幕臣が長崎に派遣されました。また、諸藩からの派遣も認められ、佐賀藩や福岡藩、薩摩藩、長州藩などから120余人の伝習生が参加しました。

のちに敵味方となって争うことになる者たちが、まだそんなことを考えもせずに長崎の地に集まり、ともに海軍の修行に励みました。日本の海軍は、まさにここからスタートしたのです。

復元された観光丸

海軍修行に励む日々

伝習は10月24日から正式に始められ、午前中は8時から正午まで、午後は1時から4時まで、日曜日以外は毎日おこなわれました。課目は、航海、大砲、造船、算術、地理、蘭語など多岐にわたり、オランダ教師の言葉を通訳がいちいち訳しながらの講義でした。

またこの伝習所には専用に造られた校舎というものがなく、もともと長崎奉行所の西役所であった建物をそのまま教室として流用しました。そのため校舎は、海軍伝習所という名称とはうらはらに、純和風の屋敷だったわけです。

そんな修行の日々にあって、やはり勝海舟はよくできた生徒でした。伝習生の赤松大三郎は、のちにこう語っています。

「勝麟太郎は明敏な人ゆえ、覚えることも早くて皆からも立てられ、勝麟さん勝麟さんと呼ばれ、ペルス・ライケンも、勝さん勝さんと云っていた」(『赤松則良半生談』)

ペルス・ライケンはオランダ教師団の団長です。本国でも優秀な海軍軍人だった彼から信頼されていたということからも、海舟の有能さがうかがえるでしょう。

伝習所には、安政4年(1857)1月になって、第二期の伝習生が加わりました。榎本釜次郎(武揚)、松岡磐吉、肥田浜五郎ら12人の幕臣と、地元長崎の役人たちです。榎本や松岡は、のちに箱館戦争で活躍する英傑で、彼らが海舟とともに長崎で海軍修行の日々を送っていたという事実には感慨深いものがあります。

こうして第一期、第二期の伝習生により修行が続けられた長崎海軍伝習所でしたが、幕府内ではある問題が議論されていました。それは、長崎は江戸からあまりに遠すぎて不便なため、海軍修行の場所を江戸に移せないかということでした。

検討の結果、築地の講武所内に軍艦教授所(のち軍艦操練所)なるものを設置し、そちらを今後、海軍修行の中心地とすることと決定したのです。幕府の大きな方針転換でした。

幕府の伝習方針転換

築地に軍艦教授所を設立するにあたり、教師役は長崎で修行中の第一期生につとめさせようということになりました。江戸には外国人は立ち入ることが禁止されていたという事情もあります。

安政4年3月、所長の永井は第一期生を引き連れて観光丸で江戸に帰還しました。永井はそのまま築地のほうの総督(所長)に就任し、観光丸は築地における練習船となったのです。

このとき、第一期生全員がいなくなっては何かと不都合だろうということで、勝海舟ら5人が長崎に残留しました。実は、オランダ側でも近く教師団の入れ替えが予定されており、新任の教師たちとの調整役が海舟には期待されていたのです。

同年8月、カッテンディーケ大尉率いる新任教師団30余人が、軍艦ヤッパン号で来日しました。このヤッパン号が咸臨丸と改名されて新しい練習船となり、ペルス・ライケンら最初の教師団は入れ替わりにオランダに帰国しています。

一方、幕府のほうでも新たに第三期の伝習生が派遣され、9月に沢太郎左衛門、小杉雅之進、松本良順、田辺太一ら30余人の幕臣が長崎に到着しました。沢や小杉といった箱館戦争組のほか、医師の松本や、海軍に進まず政治家として名をなした田辺らが参加しているのが目を引きます。

二代目の所長となったのは、幕府目付の木村喜毅。また長崎海軍伝習所には、幕臣のほかに諸藩から派遣された者として、薩摩藩の五代才助(友厚)、川村純義、佐賀藩の佐野常民、中牟田倉之助らの名もありました。いずれも幕末、明治の世に羽ばたいた俊才たちでした。

東京都墨田区にある勝海舟の銅像

伝習所閉鎖と勝海舟

安政2年10月に開校した長崎海軍伝習所は、結局、同6年(1859)2月に閉鎖となりました。存続したのはわずか3年あまりという短期間です。

日本の海軍技術の振興のために多大な功績をもたらしながら、幕府の方針変更という理由で短命に終わってしまった学校でした。以後、わが国の海軍教育は築地の軍艦操練所がになっていくことになります。

伝習所の創設以来長崎に詰めていた勝海舟も、閉鎖が決まった1月に江戸に帰還しました。帰還後は築地の操練所で教授方頭取をつとめ、さらに翌年、日米修好通商条約の批准のために渡米する使節団を護衛して、咸臨丸で太平洋を渡る快挙をなしとげます。

海舟をはじめとして、多くの若者たちが自分を磨き、才能を開花させた長崎海軍伝習所。知名度が高いわりに存続期間の短かった学校ですが、確かにこの場所から、日本は新しい時代へ向かっての第一歩を踏み出したのです。

 

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