歴人マガジン

【NHK朝ドラ「マッサン」のモデル】日本ウィスキーの父・竹鶴政孝

スコットランド留学と妻リタとの出会い

イギリス北部のスコットランドでウィスキーが造られ始めたのは15世紀末。以降、スコットランド地方の地酒として親しまれてきたウィスキーがイギリス人の酒として定着したのは1880年代、竹鶴が生まれる数年前からでした。

グラスゴー大学応用化学科に外国人聴講生として入学したものの、講義の内容が高校の授業と変わらないことにとまどった竹鶴は、地図を見てウィスキー工場を自力で探し、実習生として働かせてもらうことになりました。どんな小さな仕事も買って出て、体験したことは全てノートに克明にメモし、夜遅くまで研究を続けました。

ウィスキー造りは大麦の麦芽をピートという草の炭でいぶし、乾燥すると粉にして湯水を加える。するとでんぷんが麦芽糖に変化するので、これをろ過し、酵母を加える。こうして出来たアルコールを蒸留機で繰り返し蒸留すると、無色で透明な酒が完成します。しかしウィスキー造りはここからが勝負。樽に詰めて5年から20年熟成させる時間が必要となるのです。

こうして出来るのがモルト・ウィスキーの原酒ですが、これはコクがあるもののやや重いという欠点があるため、そこでもう一方の、とうもろこしを使って造る、飲み心地はいいがコクがないグレン・ウィスキーとブレンドして商品化に漕ぎつけます。2種類のウィスキーの製造方法、さらにブレンド技術の全てを覚えなければウィスキー造りは完成しないのです。

しかし、肝心の蒸留技術だけはいつまでも分かりませんでした。それは、子から孫に受け継がれる、この地方の門外不出のものだったからです。しかし、竹鶴の熱い意志に動かされた年老いた蒸留主任は、こっそりと蒸留技術を教えてくれたのです。

「いいかね、バルブをゆっくり開けるんだよ。目を閉じてごらん。蒸留釜の中の様子が見えるかね」

「いいえ」

「今、蒸留液が動いとる。わかるかね。体を耳にするんだ、体全体を」

現場での心得をこの蒸留主任から学び、こうして彼はウィスキー造りを体で覚えていったのです。

また、竹鶴がスコットランドで授かったものは、蒸留技術だけではありませんでした。柔道を教えていた少年の姉、リタという女性に一目惚れしたのです。次第に深い仲になっていったリタに、ある日彼は言いました。

「もし、あなたが望むなら、私は日本に帰るのをやめてここの国に留まり、職を探します」

「いいえ、あなたは大きな夢に生きている。その夢は日本で本当のウィスキーを造ることですね。わたしもその夢を共に生き、お手伝いしたいのです」

余市蒸溜所内にあるリタハウス。以前は研究所として使われていました。

理想のウィスキーを求めて

大正11年、28歳になった竹鶴は4年間の留学を終え、新妻リタを伴って帰国しました。しかし国内は第一次世界大戦後の大恐慌の真っ只中。竹鶴の会社、攝津酒造も例外ではありませんでした。

「君には申し訳ないが、ウィスキーのような年数の必要なものを、今造る余裕はない」

阿部社長はウィスキー造りを断念したのです。竹鶴はやむを得ず退社を決意しました。

翌年、中学教師をしていた彼の前に、赤玉ポートワインで成功した寿屋の鳥居社長が現れました。

「竹鶴はん、うちはウィスキーを造りたいのや。日本で本場に負けんウィスキー造れるのは、あんただけや」

一切を任せるという条件で、竹鶴は寿屋に入社しました。まず最初の仕事は工場の用地を定めること。日本でスコッチに負けないウィスキーを造るには、気候・風土が左右するのです。彼は、スコットランドの風土に似た北海道を進めましたが、「北海道は、宣伝するにも遠すぎる。大阪の近くで探しなはれ」と鳥居が反対したため、工場建設は水質の良い京都の郊外、山崎に決定しました。

スコットランドでの竹鶴のメモは、昭和4年、国産ウィスキーの第一号としてようやく身を結んだのです。「白札サントリー」として本格ウィスキーが生まれたこの年、竹鶴は35歳でした。しかし、予想に反して売れ行きは良くありませんでした。その理由をスコットランドの恩師に聞くと、白札サントリーは熟成が足りないという問題点もありましたが、何よりウィスキーになじみの薄い日本人には、なかなか受け入れられないことが分かったのです。

寿屋はその後、ウィスキーの穴埋めをするように、ビールの製造に力を入れるようになりました。自分が一介の技術者に過ぎないことを感じ始めた竹鶴は、どうしても本物のうまいモルトウィスキーが造りたいと、独立を決心します。

「良いウィスキー造りにトリックはない。自然を尊重する素直な気持ちが全ての土台だ」ウィスキーの品質はモルトにある、その優れたモルト造りには北の厳しい自然が何より大切だと信じる竹鶴は、昭和9年、かねてから理想としていた北海道余市町に、工場を建設しました。ここに大日本果汁株式会社、ニッカを設立。竹鶴政孝40歳の時でした。

ニッカウヰスキーの余市蒸溜所

ニッカウヰスキーの誕生

ようやく理想の環境を得た竹鶴は、人生をかけウィスキー造りに打ち込んでいきますが、ウィスキーは造ったからといってすぐ売れるわけでなく、4~5年の熟成が必要となります。そのため当座のしのぎとして、余市のリンゴを使ったリンゴジュースを販売しました。しかし、当時飲み物というとラムネやサイダーが主流で、ジュースは馴染みがなく、さらに冷蔵設備がないため東京や大阪に運ぶ間に暑さで味が変わり、すっぽくなって売れ行きは伸びませんでした。工場には返品されたリンゴジュースが山ほど積まれ、借金は増えていくばかりでした。

しかし諦めることなくじっくりとウィスキーの熟成を待ち、昭和15年46歳の秋、遂に待望のニッカウィスキー第一号を発売。スコットランド留学から実に22年目の秋でした。その後第二次世界大戦が勃発し、外国から洋酒の輸入が禁止されたことは、竹鶴にとって好都合となりました。軍隊で将校たちが飲む酒を製造するために、原料の大麦の配給を優先的に受けることができるからです。皮肉なことに辛い生活を余儀なくされた戦争が、ウィスキー事業を軌道に乗せたのです。

日本の敗戦が色濃くなるにつれて、余市も空襲に見舞われました。竹鶴は醸造したウィスキーの原酒を辛抱強く貯蔵庫に寝かせていましたが、その貯蔵庫が爆撃を受けてしまえば、これまでの努力も水の泡になってしまう。竹鶴は空襲の時も防空壕に入らず、入り口にじっと立って貯蔵庫を見守り続けたのです。

戦後の自由競争に戻ると、3級ウィスキーと呼ばれる粗悪なイミテーションウィスキーが世に出回り、飛ぶように売れました。竹鶴は経営は苦しいものの、確固たる信念で品質を第一に考える姿勢を決して崩そうとはしませんでした。しかし、国税庁長官からの進言には応じざるを得なかったのです。

「竹鶴さん、あんたのウィスキーにかける夢や理想はわからんでもない。だが今は3級品の時代だ。あんたの会社に万一のことがないように、3級品を造ってくれないか」

身も細るほど悩んだ末、竹鶴は社員全員を集め、その決心を告げました。「この現状を乗り切るため我が社はモルト5%の3級品ウィスキーを造る。皆耐えて欲しい」いつしか会場からすすり泣きの声が上がり、竹鶴も流れ出る涙を拭おうとはしませんでした。この時全社員と竹鶴の心は一つにつながり、北の大地に根付いたニッカの心の輪は、再び堅く結ばれたのです。

「諸君、ニッカウヰスキーの誇りを維持しようではないか。今まで本格ウィスキーを造ってきたことを忘れないでいてほしい」

こうして大量に余った原酒はさらに豊かに、深く眠り続けることになりました。充分に熟成されたこの古い原酒を活かして、竹鶴は昭和31年にゴールドニッカ、翌年にはブラックニッカを立て続けに発売。戦後の洋酒ブームも手伝って、ニッカは「ウィスキーのニッカ」として成長していったのです。この時竹鶴は61歳でした。

愛妻リタとともに

昭和36年、妻のリタが64歳で亡くなりました。来日して40年、リタはウィスキーと結婚したようなものでした。製造が忙しくなると昼も夜もなく、眠り続ける原酒の行く末に喜び悲しみ、ウィスキー一筋に生きてきた夫を支え続けてきたのです。

「リタ、わしが命ある限り造り続けるウィスキーを、青い瞳で見守って欲しかった。せめて、工場を見下ろせる丘に葬ってやりたい」

昭和54年、86歳で亡くなるまで、竹鶴の健康法はウィスキーを一日一本飲むことでした。自分からウィスキーを取ったら何も残らないと、竹鶴は、自らの造ったウィスキーを愛し、飲み、愉しみました。「ウィスキーは品質で売らなければ勝てない。儲けようと思うと良い酒はできない。絶対に品質第一主義である。これに徹して10年先を考えるのもまた、楽しい人生である」生前こう語っていた竹鶴は、こよなく愛した余市の工場が見下ろせる丘に、愛妻リタと共に、静かに眠っています。

そして時を重ね、「世界6大モルトのひとつ」と海外の評論家から高い評価を得るまでになったニッカウヰスキー。希望に燃える若き日の竹鶴が海を渡ってから80年あまりが過ぎた今、ニッカのモルトは海外から高く評価されるほどのクオリティを手に入れたのです。

(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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