「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と表現されることでお馴染みの戦国武将・織田信長ですが、その残虐行為の中でも有名なのが比叡山の焼き討ちでしょう。信長はなぜこのような行動をとったのでしょうか。
今回は、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたときの状況や、その後の比叡山について解説します。
比叡山焼き討ちが起きた理由
戦国時代である元亀2年(1571)に起こった比叡山延暦寺の焼き討ち。この事件は僧侶や子どもなど多くの犠牲者を出しましたが、そもそもの原因は織田信長と比叡山の対立にありました。
比叡山と信長の対立について
両者の対立のきっかけは、信長による比叡山領の横領です。延暦寺の住職が働きかけたことで朝廷から寺領回復の文書が出されましたが、信長はこれに従いませんでした。
当時の信長はかなり勢力を伸ばしており、それを後押しする形となったのが室町幕府15代将軍・足利義昭の存在でした。
義昭は仏門に入っていましたが、実兄の13代将軍・足利義輝が暗殺されたことにより、将軍職を引き継ぐべく上洛しようとします。しかし、道中は危険が潜んでいるため足利家と縁のある朝倉義景に援護を依頼。ところが朝倉はこれに消極的でした。そこで義昭は当時勢力を強めていた織田信長を頼ります。これにより晴れて義昭は将軍となり、信長は大名の中でも優位な立場を手に入れ、朝廷との関係を強化できたのです。
浅井・朝倉の兵たちをかばった延暦寺
義昭を奉じて権力を手にいれた信長でしたが、これを良く思っていなかった朝倉義景は、将軍に挨拶するよう信長から命じられてもいうことをきかず、義昭からの要請にすら従いませんでした。
これに腹を立てた信長は朝倉軍を攻撃しますが、ここで同盟を結んでいたはずの浅井家に背後から攻められてしまいます。これは信長にとって予想外の出来事でした。何しろ浅井長政の妻は信長の妹・お市です。長政は義理の兄であり同盟を結んでいた信長を裏切り、朝倉家を優先したということになります。
こうした経緯で起こった浅井・朝倉連合軍と信長の衝突は「姉川の戦い」として有名ですが、信長はこれに勝利。それでもなお対立は続き、今度は比叡山延暦寺が浅井・朝倉両軍の兵をかくまっているという情報が舞い込んできます。信長は延暦寺に対し、浅井・朝倉と手を切って自分の味方をすれば領地を返すこと、従わないならば焼き討ちにすることを伝えましたが、延暦寺は兵をかばい続けました。この態度が信長の逆鱗に触れ、比叡山焼き討ち事件が起こったのです。
軍事拠点だった寺社
当時の寺社勢力は、政治や軍事などの面でも大きな力を持っていました。特に比叡山延暦寺は広大な寺領や経済力、多くの僧兵を抱えていたため、一大名と同じくらいの巨大勢力でした。強訴して意見を通したり、高利貸しや女遊びをしたりといった堕落した一面もあったようです。今のお寺からは考えられない話ですが、当時の比叡山延暦寺はそのくらいの力を持っており、軍事拠点の側面があったといえるでしょう。
残虐性が浮き彫りになった戦況について
天下統一を目指す信長によって焼き討ちされた比叡山ですが、その戦況からは信長の残虐性が伺えます。ここからは、比叡山焼き討ちの戦況について見ていきましょう。
3万の兵による包囲陣で焼き尽くす
信長は重臣の池田恒興から「夜になると逃げる者が出るから、早朝を待って攻めれば一人残らず討ち取れる」と進言され、前日夜中から3万の兵士を隙間なく比叡山東麓に配置しました。これを察知した延暦寺側はお金を差し出し攻撃をやめるよう嘆願しましたが、それを受け入れる信長ではありません。一部の住民は逃げ延びましたが、早朝には織田軍による総攻撃が開始され、数多くの僧侶や住民が無残に殺されたといいます。犠牲者の数、「信長公記」では数千人、「言継卿記」では3000~4000人と記録され、この数字を見るだけでも織田軍がいかに圧倒的な勢力で攻め込んだかがわかりますね。
「信長公記」に描かれていた戦況
比叡山焼き討ちの様子は「信長公記」に書かれており、臨場感あふれる詳細な描写になっています。霊社や経巻など余すところなく焼き払い、比叡山が1日で灰になったことや、裸足で逃げまどい日吉大社奥宮に逃げ込んだ人々を逃さず殺戮したこと、織田軍が僧侶や上人など多くの首をはねて信長に差し出したことなど、かなり凄惨な様子が伝わってきます。高僧らは「悪い僧を討つのは仕方がないが、私のことは助けてくれ」と命乞いをしていますが、信長は無慈悲に彼らの首を討ち落としました。
「比叡山の山麓には数千の屍があふれ、この世のものとは思えない光景で哀れだ」といった言葉は、この焼き討ちの惨状を端的に表しているといえるでしょう。
戦いが終わった後の比叡山
信長によって残虐な焼き討ちが行われた比叡山ですが、その後はどうなったのでしょうか。復活までの道のりは遠かったようです。
5人の武将に分配された比叡山
焼き討ち後の処理を家臣である明智光秀に任せた信長は、その後も近江の寺院に放火して寺領・社領を没収しています。比叡山焼き討ちは、その地形が戦闘に有利だったため戦略的に行ったという見方もあり、寺領をことごとく奪ったのも同じく戦略だったのかもしれません。
没収されたこれらの領地は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の5人に分配されました。武将たちは与力らを派遣して比叡山を治めましたが、光秀はこのときの領地を中心に支配していくこととなり、この地に坂本城を築いています。光秀といえば後に信長を討つ人物ですが、この時点で大きな役割を担っていたことがわかりますね。
落ち延びた僧は武田信玄の元へ
一方、延暦寺から命からがら生き延びた僧たちは、甲斐の武田信玄を頼りました。信玄は延暦寺の復興を試みようとしましたが、志半ばで病死してしまいます。天正7年(1579)には正親町(おおぎまち)天皇が再興の文書を出していますが、これも信長によって阻止されているため、なかなか延暦寺の復興はかなわなかったようです。
ようやく転機が訪れたのは比叡山焼き討ちから約13年後のことで、羽柴秀吉より山門再興を認める判物と造営のための青銅が贈られました。
恐ろしい信長の所業
比叡山焼き討ちについては最近になって調査が進み、燃えた後の木材が出土されなかったり、大量殺りくがあったにも関わらず人骨が発見されなかったりするなど、通説が疑問視されている部分もあります。しかし、比叡山焼き討ちが事実であったとしたら、歴史的な大事件であることは間違いありません。この事件は今後も信長の残虐行為として、後世に語り継がれていくでしょう。