歴人マガジン

【龍馬の意思を受け継いで】北海道に理想郷を求めた甥・坂本直寛

北海道のクンネップ(現:北見市)へ

明治29年、北海道庁から与えられた入植地はクンネップ、現在の北見市でした。44歳の坂本直寛は満を持して視察のため北海道へ向かいます。それはまさに、みんなの切なる願いを背負っての旅立ちでした。

「北海道は非常に豊かな土地で農業に適している。樹木が生い茂り、タヌキ・キツネ・ウサギなどの動物が多数生息している。川には産卵期にサケが群をなして遡上し、農業以外にも食うに困ることはない」

大いに希望的観測が加わった内容でしたが、直寛の報告者は入植希望者に夢と希望を与えました。

「直寛さんは厳しいお人柄じゃが、決して曲がったことをせん方じゃ。わしらの命を預けたつもりで信じて参りましょう」

自由と平等を謳う北光社は、著しい身分格差や小作農のような主従関係を廃止し、誰にでも独立した土地を配分できるように社則も定めました。

明治30年、4月。直寛を初代社長にすえた北光社は入植希望の112家族、650人と共に土佐の港を出港。関門海峡を抜け日本海を北上し、宗谷岬を回って、28日間かけて網走港に着きました。途中船の中では、はしかが流行し、30数人が死亡したほか、たくさんの子供たちが長旅で衰弱しました。

網走から一行は重い荷物を背負い、歩き通しで5日目に入植地であるクンネップに到着したのです。5月7日のことでした。一行を待っていたのは、身の丈を超すほどに生い茂ったクマザサと570万坪に及ぶ原生林。そして故郷高知とは比べ物にならないほどの寒さでした。周囲の地形さえもわからぬ中、人々は人力での開墾に励みました。物資輸送に欠かせない馬をヒグマに襲われ、大切な食料は満足に行き渡らず、激しい労働と飢えに耐える日々が続きました。

「全財産を投げうって渡ってきたみんなを、ここで死なせたりはせん。直寛が命に代えてでもこの苦境から守り通してみせます」

自分の予想を遥かに超える過酷さに、重い責任を感じる直寛は、社長自ら馬車を引いて一日も休まず食料の調達に駆け回りました。ヒグマの襲撃に怯えながら「寝床で星が拝める」ほどの草葺き小屋に寝泊りする毎日。「本当にこれでよかったのか」と不安に揺れる農民たちでしたが、献身的に励む直寛の姿を非難するものはありませんでした。

「今が一番大変な時じゃ、文句を言うても詮の無いこと。直寛さん、わしらも一丸となって頑張りますきに・・・」

理解ある人々に支えられ、開墾と作付けの目途がついた8月、移住民らの指導にあたっていた直寛は、自ら社長の座を退き副社長にすべてを託します。

「皆さん、私は浦臼に行こうと思っちょります。ここ北海道で理想郷を作ろうと決心する時、その心の支えになったのが先に浦臼の地に入植し聖園農場をお作りになった同郷の武市安哉先生でした。しかし、先生は入植後たった1年で亡くなってしもうたとです。先生の無念、志半ばの思い。リーダーを失った教会の人々。私は私の信ずるキリストの教えでどうしても彼らを救いたいのです。今行かんかったらいつ行くんじゃと思うのです」

入植後わずか5ヶ月で直寛はクンネップを去ります。

盟友武市の死後、坂本直寛らが浦臼村に建設した日本基督教浦臼教会の新会堂

村人たちとの軋轢

明治31年5月。46歳の直寛は家族を伴い月形村浦臼に入植します。偉大なリーダーを失って4年の歳月がすぎ、浦臼の人々はキリスト教会が経営する農場で生計を保っていました。そこへ良かれと思って移住してきた直寛でしたが、彼を心から歓迎する村人は少なかったのです。

「坂本直寛はわれら武市先生に成り代わるつもりじゃろか。随分と厳しくわしらに説教する。一体、何様のつもりなんじゃ」

清廉潔白を旨とする直寛の言葉や態度はとても厳しく、村人たちにとってただただ窮屈なものでした。心の底に不信感を抱く村人とは、知らず知らずのうちに溝ができていったのです。

そんな直寛に、更なる試練が訪れました。その年の9月、それは突然の大雨による石狩川の氾濫でした。唸りを上げ轟音と共に北海道を襲った未曾有の大洪水。石狩川流域の村々は予想を超える大打撃を被ったのです。屋根裏部屋に非難した直寛一家は、まるでノアの箱船のごとく嵐が収まるのを待つしかありませんでした。

「これは神が与えた試練なのか?多くの人々が路頭に迷い、私に救いの手を求めているに違いない。一刻も早く救済に向かわなくては」

家族を置いて、直寛は村人たちを激励してまわり、救済運動によって政府から80万円という災害援助金も取り付けました。この水害を機に、直寛は石狩川治水工事への働きかけを政府に行い、献身的な努力でもって陳情書が受理されたのです。

冬の石狩川

しかし、朗報を携えて戻った直寛を迎えたのは、援助金の使い道をめぐって争う人々でした。仲介に入った直寛でしたが、誰もその言葉に耳を貸しません。それどころか公金の一部を私物化したという疑いまでかけられてしまうのです。

「やい、直寛。途中からこの浦臼に入ってきて、偉そうなことばかり言いやがって、終いにはわしらの金に手をつけるとは何事じゃ!どうなんだ。本当のことを白状しろ!」

村人はもちろん、教会からも信じてもらえず、直寛は無言の抵抗をします。開墾と布教に明け暮れ、人々の救済に奔走し続けた直寛にとって、この事実は許し難い屈辱でした。

「私がどんな気持ちでこの地に来て、どんな覚悟で働いていたのか、誰もわかろうとしてくれん。なぜ人は私を疑うのか。武市先生、教えてくれ。一体私が何をしたというのだ!」

彼を包み込む計り知れない孤独。神をも疑いたくなるような落胆に、直寛は心を閉ざし、とうとう村人たちと断絶してしまいます。

ピアソン夫妻との出会い

世間から孤立して一年あまり。直寛はその見識の高さと信仰心の篤さを本州からのキリスト教伝道師によって見いだされ、札幌でのキリスト教教師に推薦されたのです。自信を失っていた彼にとって、願ってもない再出発でした。更には、その堂々たる指導ぶりに、いちキリスト教信者から、日本キリスト教会の正式な伝道師として任命され、旭川に赴任。明治35年、50歳となった直寛は、ここでアメリカ人宣教師ピアソン夫妻と運命の出会いをします。

「直寛さん。あなたに民は何を求めているのですか?献身への見返りですか?あなたの信ずるイエス・キリストは、民衆に見返りを求めてはいないはずです」

どこか心に陰を持つ直寛に、ピアソン夫人は穏やかな言葉で語りかけ、本当の宗教者としての心を諭したのです。

「私は何て傲慢だったのだろう。正しさだけを振りかざし、人々を傷つけていることに気づかなかった。どう思われるかではなく、どう思いやるかだけだったのだ・・・」

直寛の心を覆っていた暗雲が消え、晴れ晴れとした思いだけが残りました。それからというもの、彼はピアソン夫妻の活動を積極的に支援し、自らも傷ついた人々の為に日夜歩きました。不安の中、日露戦争に赴く多くの若い兵士を訪ねては、夜を徹して神の教えを説きました。また、かつて投獄された我が身を振り返り、ピアソン夫人と共に、幾度となく十勝監獄へと赴いては、心すさんだ受刑者たちを立ち直らせる努力を続けたのです。

「直寛様、わしはこの手で人を殺めた極悪人です。もう地獄に堕ちるほかないんです。神様は、こんなわしでも助けてくださるんじゃろか」

「安心なさい。神はあなたではなく、犯した罪を憎んでいるのです。悔い改める心さえあれば、みんな救ってくださいます。この私がそうであったように・・・」

慈悲深く、温もりある直寛の言葉に心打たれ、監獄にいる屈強な囚人たちが半分以上も改心し、直寛が訪れることを心待ちにするようになったのです。

札幌の地に眠る直寛

その後、坂本直寛は北海道においてその人生をすべて布教のため、人々のために捧げます。そして明治44年、9月6日、札幌病院において胃ガンのため天国に召されました。享年58歳。

「私は、神にも民衆にも頭の下がらぬ傲慢な人間です。そんな自分だからこそ、この教えが必要だったのでしょう。迷いに迷った北海道への移住でしたが、この大地が私に尊い人生を与えてくれたように思います」

病床に伏せるまで、教壇に立ち続けた坂本直寛。その亡骸は自由を求めた北海道・札幌の円山墓地に埋葬され、墓石刻まれた十字架が、信仰に生きた直寛の人生を今も物語っています。

(出典:「第五集 ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

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