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【西南戦争と西郷隆盛】なぜ日本最後の内乱は起こったのか?

【西南戦争と西郷隆盛】なぜ日本最後の内乱は起こったのか?

日本の歴史上、最後の内戦となった西南戦争。その中心人物とされる西郷隆盛は、明治維新での華々しい活躍から一転、逆賊の名を背負うことになります。この戦争の背景には、どんな出来事があったのでしょうか。今回は、西南戦争が起こった時代背景と経緯、そして西郷隆盛の苦悩について解説します。

西南戦争が起こった背景

西南戦争は明治維新の約10年後に勃発しました。幕末から明治にかけて日本の国の仕組みは大きく変わり、そのゆがみが一気に吹き出したのが西南戦争です。まずは、西南戦争が起こった背景について見ていきましょう。

明治六年の政変について

西南戦争の数年前、明治6年(1873)に「明治六年の政変」と呼ばれる大きな政治事件が発生しました。これは、西郷隆盛、板垣退助らが主張していた征韓論が裁可されなかったことに対して、抗議を示すために征韓論派が職を辞した事件です。明治政府は明治維新を起こした旧長州藩士と旧薩摩藩士が中心となって作られた政府でした。西郷は旧薩摩藩士たちの精神的指導者だったこともあり、彼の辞職に伴い、多くの官僚・軍人が政府を去ることになりました。

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政府への不満が蓄積していた

日本刀
廃刀令が武士の魂である刀の帯刀を禁止しました。

多くの士族から慕われていた西郷が政府を去ったこと、明治9年(1876)3月に廃刀令が、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族たちは明治政府に対して急速に不満を募らせていきました。廃刀令は武士の魂とされていた刀を帯びることを禁止する政策であり、金禄公債証書条例は士族が江戸時代から与えられていた俸禄を廃止するというものです。これらの政策は士族からすると、今まで持っていた特権の多くを奪われるという受け入れ難いものでした。

内乱を起こす気はなかった西郷

士族たちの明治政府に対する不満は強まっていきますが、西郷は戦争を起こすつもりはありませんでした。西南戦争に至るまでの彼の行動と苦悩を追っていきましょう。

若者のための私学校を設立

明治六年の政変で明治政府を去り、鹿児島に帰った西郷は多くの不満を持った士族たちを目の当たりにします。このままこの士族たちを放置すれば、新政府に対して何をしでかすか分からないと感じた西郷は、私学校と呼ばれる陸軍士官養成を目的とした学校を鹿児島各地に設立し、彼らの育成に励みます。後に西南戦争の薩摩軍の母体になる私学校ですが、設立時の西郷の思惑はむしろ、士族たちによる新政府への反乱を防ぐというところにありました。

しかし、この私学校は篠原国幹(しのはら くにもと)を長とする銃隊学校と、村田新八を長とする砲撃学校が中心となっていることからもわかるように、かなり軍事的な色合いの強い学校でした。西郷自身は学校での指導はほとんどせず、すべて後進にまかせていたため、やがて私学校は西郷の意思と関係なく反政府的な性格を強めていったのです。

大久保利通と西郷隆盛

西郷隆盛像

私学校は徐々に鹿児島県下で影響力を強め、県の政治にも関わるようになります。明治政府は、西郷の私学校が幅を利かせているこのような状況に対し危機感を持っていました。政府側の大久保利通も、旧知の仲である西郷を放置するわけにもいかないと考えます。そこで大久保は、薩摩出身の警察官などを帰省という名目で派遣します。この派遣の真の目的は、西郷と私学校を探る密偵でした。

その頃、明治政府が鹿児島にある陸軍の火薬庫から武器弾薬を秘密裏に接収するという出来事が起こりました。これに対して憤った私学校徒は、政府所有の草牟田弾薬庫を襲撃。さらに、派遣された密偵をすべて捕縛し、激しい拷問を行います。そしてついに、帰省の目的が西郷の暗殺であるという自白を得るのです。このときの自白が決め手となり、激怒した私学校徒は暴発寸前の状態に達しました。

ですが、もともと大久保は西郷暗殺の指示をしていたわけではありません。密偵を派遣したものの、その目的は視察でした。視察と刺殺という言葉の掛け違いが、拷問の際にあったという説もあります。中央政府と鹿児島の亀裂が大きくなる中、大久保の真意を知りたいと考えていた西郷ですが、この自白を受けて彼は盟友である大久保が、自分を殺害しようとしていると考えるようになりました。

 

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