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【西南戦争と西郷隆盛】なぜ日本最後の内乱は起こったのか?

西郷死す!日本最後の内乱・西南戦争

銃弾跡が残る石垣
西南戦争の銃弾跡が残る石垣です。

不平士族を中心とする私学校勢力と明治政府の間の緊張はどんどん高まっていきました。そして、ついに西南戦争が勃発します。西南戦争の開戦から終戦までの経緯を追ってみましょう。

熊本城で戦いが始まった

以前から明治政府に不満を持っていた鹿児島の士族たちは、政府が西郷の殺害を計画していると聞き激高します。もはや後戻りできないと悟った西郷は、私学校幹部による会議の場で挙兵を認めました。鹿児島を出発して北上した薩摩軍は、熊本鎮台の置かれた熊本城に到着します。天下最強と唄われた薩摩隼人たちが城を攻め立てますが、熊本城は堅城でなかなか落ちませんでした。当時、熊本鎮台司令長官だった元土佐藩士の谷干城(たにたてき)は、戊辰戦争でも板垣退助らとともに北関東・会津における戦いで活躍した名将。いち早く薩摩軍の情報を掴んでいた谷は籠城を決意し、結果として熊本城を52日間に渡り守り抜きます。明治政府の援軍が南下する前に熊本城を落とせなかったことが、薩摩軍には大きな誤算になりました。

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激戦地となった雨の田原坂

田原坂の石碑
激戦地となった田原坂に立っている石碑です。

政府軍が南下してくることを知った薩摩軍は、軍を数部隊にわけて、政府軍を迎え撃ちます。各戦線で一進一退の攻防が続きますが、中でも現在の熊本県の田原坂・吉次峠で繰り広げられた田原坂の戦いは壮絶を極めました。「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」と民謡・俗謡でも歌われるように、この戦いは春先の冷たい雨の中で行われ、薩摩軍の抜刀隊と銃撃の前に政府軍は甚大な被害を出しましたが、徐々に政府軍が押し返します。

こうして盛り返していった政府軍は総攻撃を仕掛け、薩摩軍の中心的人物だった篠原国幹らを討ち取り、薩摩軍を打ち破って熊本救援に大きく前進しました。この戦いで政府軍の小隊長のうち3分の1が戦死したことからも、相当な激戦であったことが伺えます。

9月24日城山で西郷散る!

西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛の終焉の地は、鹿児島県城山町です。

薩摩軍は雷撃隊、干城隊、鵬翼隊などの諸隊が熊本や延岡など各方面で戦いますが、やがて政府軍におされていきます。各地で政府軍に敗退した薩摩軍は鹿児島に撤退し、城山を占拠しますが、この頃になると薩摩軍には政府軍を押し返して独立を保つ力は残されていませんでした。

明治10年(1877)9月24日に最後の総攻撃を仕掛けた薩摩軍でしたが、次々と銃弾に倒れていきます。西郷も股と腹に銃弾を受け、最期を悟りました。別府晋介に介錯するよう促したあと、明治天皇がいる東の方角に拝礼し、明治維新の最大の立役者、西郷は自刃しました。

その後、別府晋介のほか、桐野利秋、村田新八らも西郷を追うように戦死を遂げます。こうして7カ月にもおよんだ西南戦争は終結しました。

西郷隆盛の苦悩

西郷は決して戦争を起こそうとは考えていませんでした。しかし、結果的に不平士族の若者たちの不満を抑えきれなくなってしまいます。西郷はそこまで考え詰めた彼らに身を捧げる形で、「この体はお前さぁたちに差し上げもんそ」という言葉を伝えたと言います。仲間たちの想いをくみ取り、戦いの場へと向かった西郷。最期に死を覚悟した彼の胸中はどのようなものだったのでしょうか?

 

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