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【赤穂浪士の討ち入り場所】吉良邸から泉岳寺まで事件当日の動き

【赤穂浪士の討ち入り場所】吉良邸から泉岳寺まで事件当日の動き

江戸時代の武士の忠義について語る際に必ずといってよいほど取り上げられる忠臣蔵(ちゅうしんぐら)。毎年、赤穂(あこう)浪士の討ち入りが行われた年末になると、これにまつわるドラマなどがテレビで放映され、もはや冬の風物詩のようになっています。忠臣蔵は大石内蔵助(おおいしくらのすけ)ら赤穂浪士が、江戸時代の元禄年間に実際に起こした事件をもとにした物語です。今回は、忠臣蔵のもとになった「赤穂事件」の際に赤穂浪士が討ち入った場所や討ち入りを決行した経緯、討ち入り後の浪士たちの行動についてご紹介します。

討ち入り場所は吉良邸

浅野内匠頭
江戸城松の廊下で刃傷沙汰を起こし、切腹した浅野内匠頭です。

吉良上野介(きらこうずけのすけ)との刃傷事件によって、切腹を命じられた主君・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ/長矩)の無念を晴らすため、吉良を討つことに決めた大石ら赤穂藩の家臣たち。彼らは当初、内匠頭の弟(後の養子)である浅野大学を押し立てて浅野家再興の道を探りますが、それを封じられたことから、ついに討ち入りを決意します。では、彼らが討ち入りを決行した場所はどこなのでしょうか。

吉良邸があった墨田区本所

吉良邸跡
吉良邸跡は現在の本所松坂町公園にあります。

赤穂浪士たちが吉良を倒すために討ち入ったのは、吉良家の上屋敷である吉良邸です。当時の吉良邸は2,550坪もある広大な敷地に立った屋敷でした。吉良邸は現在の墨田区本所にあり、JR両国駅の近くに位置していますが、現在では建物は残っておらず、吉良邸跡の一部が本所松坂町公園として保存されています。

吉良の屋敷替えについて

討ち入りが行われたこの屋敷を吉良が幕府から拝領したのは、事件の1年ほど前でした。実は、この屋敷替えについて幕府側は、浪士たちの討ち入りが有利に運ぶように細工したという説があります。その有力な理由の一つが表門の位置で、もともと南にあった表門が、吉良が拝領したときには東側に変更されていたのです。これによって門から屋敷までの距離が短くなったことで討ち入り時に直ちに吉良に接近でき、また、護衛の武士の多くが起居していた長屋と門の距離が遠くなったため、浪士たちが護衛による妨害を受けづらくなりました。拝領した屋敷にそのような変更がされていたことから、幕府自体も浪士の討ち入りを後押ししていたのではないかといわれているのです。

12月14日討ち入り決行!

元禄 15年(1702)12月14日、ついに赤穂浪士たちの討ち入りが決行されます。討ち入りに至った経緯から当日の様子、吉良の最期について見ていきましょう。

決行に至った経緯

大石内蔵助
播磨国赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助。

吉良邸への討ち入りは、なぜ12月14日に決まったのでしょうか。それには吉良の行動が関係していました。吉良は当時、吉良邸と呼ばれる本所の上屋敷以外にも住居を持っており、どの日にどの住居にいるか確実には分からない状況にあったのです。討ち入りは江戸という、当時の世界でもまれにみる大都市で行われました。当然、江戸幕府の下、奉行所などの治安組織が置かれており、空振りしたからといって別日にするわけにはいきません。吉良を万が一にも討ち漏らさないため確実に邸内にいる時を狙う、それが首謀者・大石が重視した課題でもありました。そんな折、12月14日に吉良邸で茶会が催されるため、吉良は確実に本所の屋敷にいるという確かな情報がもたらされます。そこで大石ら赤穂浪士は12月14日を討ち入りの日と決めたのでした。

討ち入り事件の様子

大石主税
討ち入り時、裏門組を任された大石の長男・主税です。

討ち入りの当日、着替えを済ませた赤穂浪士四十七士は午前4時ごろに拠点を出発し、吉良邸に向かいます。大石率いる表門組と彼の息子である大石主税(ちから)率いる裏門組に分かれ、絶対に吉良を討ち漏らさない態勢で討ち入りは開始されました。当時の吉良邸には100人ほどの家来がいたため、四十七士たちは相手をかく乱する作戦に出ます。「火事だ」と騒ぎながら侵入することで吉良方を混乱させ、家来が多く居住していた長屋の戸口を封鎖して相手の戦闘力を封じたのです。これらの機略が功を奏し、赤穂浪士たちは戦いを優位に進め、ついに吉良を仕留めたのでした。

吉良の最期について

吉良は、四十七士たちが寝所に到着した時にはすでに逃げ出していました。まだ布団が温かいことを確認した四十七士たちは吉良邸内を探し回ります。台所の脇の部屋を探していたところ、間十次郎(はざまじゅうじろう)が白小袖姿の老人を襲いました。この老人に内匠頭がつけた傷跡が残っていたこと、吉良側の家来に本人であることを確認できたことが決め手になり、この老人が吉良であることが発覚します。こうして吉良は四十七士たちに討ち取られたのでした。

浅野内匠頭の墓前に集う

吉良を討った大石ら四十七士たちは、その後どのような行動をとったのでしょうか。吉良邸討ち入り後の彼らの足跡を追ってみましょう。

吉良邸から泉岳寺へ

泉岳寺の山門
浅野内匠頭と赤穂浪士たちが葬られている泉岳寺の山門。

吉良を討った四十七士たちは当初決められていた通り、主君であった内匠頭の墓所がある泉岳寺に引き上げます。そこで切り取った吉良の首を供え焼香し、主君の無念を晴らしたことを報告したのでした。この行動は吉良を討ったことが私怨ではなく、主君への忠義から出た行動であったことを強く印象づける結果になりました。

幕府に報告に行った者も

四十七士全てが泉岳寺に向かったのではなく、途中で吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)と富森助右衛門(とみのもりすけえもん)の2人が一行から抜け、討ち入りを決行し吉良を討ち取った旨を幕府に報告しました。これは大義名分の下、吉良を討ったことを明確にするためでした。また寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)が行方知れずになりますが、この理由は現在まで謎とされています。

毎年、義士祭が行われる

赤穂義士記念館

四十七士の主君であった内匠頭の墓所があり、赤穂浪士たちが討ち入り後に吉良の首を持参した東京の泉岳寺では、赤穂浪士を赤穂義士と呼び、毎年討ち入り日の12月14日前後に義士祭が行われています。多くの苦難を乗り切り、見事主君の無念を晴らした赤穂浪士たちには、江戸の頃から賞賛が寄せられていました。泉岳寺の境内には彼らの足跡を記した赤穂義士記念館もあり、現代になっても多くの参拝客が後を絶ちません。今後も、年末には彼らを題材とした創作作品が作られていくことでしょう。

 

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