歴人マガジン

【白虎隊ただ一人の生き残り】北海道の通信の発展に尽力した飯沼貞吉

ただ一人生き残った飯沼貞吉

降伏後に撮影された鶴ヶ城(会津若松城)

1868年8月22日、午後4時。白虎隊総員343名中、貞吉が所属する上級藩士子弟からなる士中2番隊42名は、藩主の見送りを受け、最前線へと進んでゆきました。そのうち日はとっぷりと暮れ、激しい風雨が容赦なく少年らを濡らしました。その夜は敵の姿もなく、明け方、隊士たちはいささか気を緩め、待機していました。丁度その時、突然深く垂れ込めた霧の中から新政府軍の銃弾が打ち込まれたのです。不意を突かれた会津諸隊はじゃ、たちまち総崩れになってしまいました。歴戦の新政府軍2700名に対し、こちらの兵力は、わずか500名。あまりに無力でした。彼らの体力は徐々に消耗し、無念の敗走を始めました。

散り散りになった白虎士中2番隊士たちは、出陣の翌日、23日午後3時、ようやく会津藩の居城・鶴ヶ城が一望できる飯盛山までたどり着きました。この時、彼らの人数は半数以下の20名にまで減っていました。前夜から一睡もせず、加えて空腹とのどの渇き。疲れ切っていた彼らがそこから見たもの、それは、城下に上がる炎と、天守閣を含む黒煙だったのです。

「城は落ちてしまった」、少年たちは泣き叫び、やがてひとつの決断に向かいます。それは、藩主が城と運命を共にされた今、自分たちに残された道は、敵の辱めを受けぬよう、自決することでした。「ならぬものはならぬ」、この頑ななまでの掟が、最後まで少年たちの心を支配していたのです。

少年たちはその場に座り込み、城に向けて伏し、拝んだあと、次々に腹やのどを突いてゆきました。貞吉もまた、上着に縫いこんだ母の短冊を固く握りしめ、それから脇差しでのどを2度突きました。少年たちはこうして、やがて訪れ始めた夕闇とともに、20年に満たない人生を自ら閉じたのです。

ところが、その時鶴ヶ城はまだ落城していませんでした。白虎隊士たちは、城下町の炎を、城が燃えていると勘違いしてしまっただけだったのです。

どのくらい時が経過したのか、貞吉はおぼろげながらにふと意識を取り戻しました。急所をはずし、死に切れずにいたところを、戦死者の所持品を狙う盗人に懐をさぐられ、その気配で目を覚ましたのです。(さては敵か!)朦朧としながらもその手をつかむと、盗人は驚きながらも、貞吉を安心させるため、自分が隠れている山中まで連れて行くと言うのです。盗人は再び意識を失った貞吉を山まで運び、そこで刀を盗むと、そのまま置き去りにして逃げました。

その後貞吉は、偶然通りかかった下級武士の妻に発見され一命を取り留めたのです。、かろうじて自分の名を名乗り、自決の一部始終を伝えると、その女性は「藩主も城も無事である」ということを貞吉に告げました。
事実を知った貞吉は言葉も出ませんでした。

(俺達は一体、何をしてしまったんだ!殿に続けと潔く自決した仲間たちの魂はどこに行けば良いのだ……)

貞吉は近くのお堂に匿われ、医者や農民たちに手厚い看護を受けました。新政府軍の追っ手が迫るなか、命がけの介護が続けられ、こうして貞吉は白虎隊ただ一人の生存者となったのです。

皆の温かい心でよみがえった貞吉の口から、白虎隊の悲劇が明るみに出ると、藩主をはじめ、会津藩の人々はその衝撃的な結末に涙を流し、19名の若者を手厚く弔いました。

逓信省に入り技術者の道へ

戊辰戦争は新政府軍の圧倒的勝利で幕を閉じました。会津藩は石高を減らされたうえ、青森県むつ市へ藩ごと移住させられ、また、貞吉ら会津藩士は、賊軍として東京へ護送され1年間の監禁生活を余儀なくされました。青森へ向かった会津藩士を待ち受けていたのは、作物もとれず、十分な住まいも確保できない、苦しい生活でした。

貞吉にはこの時、大きな決意が芽生えていました。それは、亡き友へのはなむけとして、一度救われたこの命を、世の中のために役立てようという気持ちでした。旧幕府の人々が大勢学ぶ学問所の門を叩くため、貞吉は静岡へ赴き、一心不乱に勉学に勤しみました。その彼の優秀さに目を向けた、かつての敵・明治新政府は、学問所を卒業したばかりの貞吉に、わが国初の電気通信専門学校で研修を受けるように通告します。

文明開化の日本では、新たな情報社会の幕開けとして、各地で電信を取り入れ始めており、貞吉はこれまで見たこともない、最新技術の中へ飛び込みました。その中で学んでいくうちに、彼は重要なことに気づきました。(あの時、自決の前に落城かどうかを確認できていたら、仲間は死なずに済んだのだ)、その後悔の念が、貞吉の心にいつも暗い影を落としてきました。情報がいかに大切なものか、この時彼は痛感したのです。遠い場所の情報を正しくつかむことが可能な世の中がやってくるなら、ぜひ自分もその手伝いがしたい。そうすることが、亡き仲間たちへの供養につながるはずだ。貞吉は、電気通信事業を日本に発展させるため、生涯打ち込むことをこの時決意しました。

明治5年、18歳の貞吉は、明治政府の逓信省に入り、技術者の道を歩み始めます。小倉、新潟など全国各地をまわり、電信線の敷説を担当、通信網の普及に務めました。

明治28年の日清戦争の時には、40歳の飯沼貞吉は歩兵大尉として朝鮮半島に出征し、ソウルと釜山に電信線を架設するという危険な任務を任されました。電信線架設部隊は、万が一に備えて武器を持つようにと、護身用の拳銃を持たされましたが、貞吉は断りました。

「いや、私は白虎隊で一度死んだはずの身。そんなものは不要です」

この時彼が完成させた通信網は、戦況に大きく貢献しました。

北海道の通信網整備に尽力する

飯沼貞吉の提案により札幌時計台の中に臨時交換台が設置されました

北海道と関わりを持ったのは、明治38年。50歳の時でした。彼は逓信省、札幌郵便局の工務課長として赴任し、北海道の土を踏みました。この頃札幌の人口はおよそ8万8千人。北の都として発展を続けていましたが、電話事情はまだまだの状態でした。「電話を使うより人を走らせるほうがまだ速い」と言われるほど、電話の普及は遅れていました。

明治38年、日露戦争に勝った日本は樺太南部を日本領土としました。これにより明治政府は樺太開発のため北海道内の通信網の整備に力を入れ始めました。貞吉は、札幌をはじめ小樽、旭川、室蘭で電話交換機を、効能性の交換機に取替える工事を推し進めました。これで電話交換のスピードが一挙に上がり、電話加入台数も1千台を越えました。また、市外通話の需要も高まり、電信電話線の架設や無線局の開設、東京-稚内間や樺太南部との通信回線の開設など、電信技術者、飯沼貞吉は精力的に働きました。

赴任2年後の明治40年5月、札幌に火災が発生しました。消失家屋380戸、札幌支庁、警察署、札幌郵便局などが失われる大火でした。郵便局内の電話の交換台も焼けて、電話業務が止まってしまったため、札幌の町は一時電話が不通となる一大事となりました。

「一刻も早く電話を使える様にしなければならん!焼け出された家族を心配している人たちのためにも電話をつなぐんだ!」

貞吉は、札幌時計台の中に臨時交換台の設置を提案し、すぐさま実行に移しました。飯沼貞吉の速い決断と迅速な行動。そして正確な指示は見事なものであり、後に逓信大臣も貞吉の業績を絶賛したほどでした。

札幌物産大共進会が開かれた際、会場に公衆電話を設置したのも、貞吉でした。これが北海道で初めての公衆電話となり、物珍しさに人の列は、いつまでも絶えることがありませんでした。北海道の電気通信育ての親となった、飯沼貞吉は札幌での5年間の勤務を終えると仙台に転勤し、退職後は静かな余生を送りました。

かつての仲間たちと飯盛山に眠る

白虎隊の墓所
飯盛山にある白虎隊隊士の墓所

昭和6年、78歳の時、飯沼貞吉はこの世を去りました。終生、白虎隊のことは人に語らず、寡黙を通しましたが、一度だけ酒の席で酔った部下に身の上話を問われ、のどの傷を見せ、「これがその時のものだ」と言ったそうです。

時が流れ昭和32年、戊辰戦争後90年祭が会津若松市で行われた時、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられました。白虎隊の仲間と別れてから90年の歳月を経て、彼はようやく19名の仲間のもとへ帰ることができたのです。

筆舌に尽くせぬ「心の傷」を生涯持ち続けながらも、新たな日本のため、北海道の電気通信の発展に尽くした飯沼貞吉。

現在、貞吉が札幌で暮らした場所、中央区南7条西1丁目には、「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地」と刻まれた碑が建てられています。

(出典:「第四集 ほっかいどう百年物語」中西出版

STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。

 

~ ほっかいどう百年物語 ~
第1回【札幌で愛され続ける判官さま】北海道開拓の父・島義勇
第2回【世界地図に名を残した唯一の日本人】探検家・間宮林蔵
第3回【すすきのに遊郭を作った男】2代目開拓使判官・岩村通俊
第4回【北海道の名付け親】探検家 松浦武四郎
第5回【苦難を乗り越えて…】知られざる会津藩士と余市リンゴの物語
第6回【NHK朝ドラ「マッサン」のモデル】日本ウィスキーの父・竹鶴政孝 
第7回【龍馬の意思を受け継いで】北海道に理想郷を求めた甥・坂本直寛
第8回【新たな国を目指して】激動の幕末にロマンを追い求めた榎本武揚
第9回【伊達氏再興のために】北海道伊達市の礎を築いた伊達邦成
第10回【新選組の生き残り】北海道で余生を送った二番隊隊長・永倉新八

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