先日、2025年の万国博覧会(万博)が大阪で開かれることが決定しました。期間は2025年5月3日(土)~11月3日(月)の185日間で、大阪の夢洲(ゆめしま)を舞台に想定来場者数が約2,800万人、経済波及効果(試算値)は約2兆円という大規模なものが予定されています。前回、万博が大阪で行われたのが1970(昭和45)年のことでしたから、実に55年ぶりの大阪開催です。さて「大阪万博」といえばなんといっても「太陽の塔」。岡本太郎作の巨大なオブジェは大阪万博の象徴としてだれもが知っているでしょう。
近代の女性を取り上げるシリーズ、今回は岡本太郎の母で作家の岡本かの子について取り上げます。
大地主の「お嬢様」として生まれる
幕府や諸藩と取引のあった豪商・大貫家。神奈川県橘樹(たちばな)郡高津村(現川崎市高津区)に居を構えるこの大地主の令嬢としてかの子(本名・カノ)は1889(明治22)年に生を受けました。ただし、生まれつき体が弱かったために両親ではなく養育母に育てられたといいます。カノはこの養育母の女性から源氏物語をはじめとする物語文学に接し、また村内の塾で漢文を習い、短歌を詠むなど、文学と実に親しい幼少期を送りました。
当然のように文学少女に育ったかの子は跡見女学校に通いながら、雑誌や新聞の投稿欄に作品を送るようになります。偶然にも兄の大貫晶川(しょうせん)が谷崎潤一郎をはじめとした文士と交流しており、これらの人物が大貫家の邸宅に出入りするようになりました。かの子の作品はなかなか評価を受けることができませんでしたが、それでも書き続けることをやめませんでした。やがて渋谷にあった「新詩社」の与謝野晶子を訪ねて同人となると『明星』『スバル』などの雑誌にかの子は新体詩や短歌を発表しはじめました。このころは名前を漢字で表記した「可能子」と名乗っていました。
岡本一平との結婚、そして愛人との同居生活へ
富豪である大貫家では、毎年のように夏を信州の避暑地で過ごしていました。19歳の時に沓掛(中軽井沢)の旅館に滞在した際、かの子は岡本一平という二つ年上の若い画家と知り合います。一平はまだ東京美術学校西洋画科の学生で、藤島武二に師事していましたが、二人はあっという間に恋に落ち、2年もたたないうちに結婚、京橋の一平の実家で同居することになりますが、かの子は一平の家族に受け入れられませんでした。二人だけで居を構えることになってしばらくたち、長男の太郎が誕生。青山のアトリエに二人は転居することになりました。
しかし、若い二人の結婚生活は順調ではありませんでした。芸術家同士ということもあってか、二人はしばしば衝突することがありました。1912(大正元)年に夏目漱石の紹介で朝日新聞社に入社して漫画記者となった一平が、放蕩な生活を繰り返していたことが、その主な原因でした。さらに、かの子の文学を支えてくれた兄が亡くなると、かの子は人生に絶望を覚えます。しかしそんな彼女を救ったのもまた一平であり、初めての歌集『かろきねたみ』の刊行に導いています。それでも兄に続く母の死、やまない一平の放蕩生活と家計の貧困が容赦なくかの子を攻め立てます。かの子は長女を出産後精神科に入院せねばならないほどでした。さすがの一平もかの子の入院とそれに次ぐ長女の死をきっかけに家庭を大切にする生活に戻ります。しかし、かの子の愛はもはや一平に戻ることはありませんでした。
かの子は自分を愛してくれる早稲田大学の学生・堀切茂雄と一平も共に暮らす家で同居するようになります。いわば、夫と愛人が同居するという奇妙な生活のスタートでした。一平には「プラトニックな関係である」とかの子は伝えますが、当然一平は信じず、しかし責めるでもなく受け入れました。このころかの子は茂雄の子どもを出産しますが、この子はすぐに亡くなってしまいました。その後もかの子は不倫相手との同居を繰り返し、それを見て太郎は「最低の母親だ」と思うようになったと言われています。
宗教家として、そしてようやく作家として
お互いの放蕩、相次ぐ子供の死に一平とかの子は宗教へと救いを求めます。さまざまな宗教との出会いの中で二人を揺るがしたものが『歎異抄』でした。親鸞の考え方によって二人は目覚め仏教の研究を始めます。そんな折、一家はヨーロッパへ外遊しました。この渡欧で太郎は絵の勉強を心ざし、パリに残ることになりました。かの子は帰国後も仏教に関する講演や執筆で忙しく働きました。心は少女のころから向いていた文学のほうにどんどん向くようになっていきます。
そんなかの子が小説に専念できたのは、晩年の数年間だけでした。川端康成に紹介され、1936(昭和11)年に、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を発表して、作家としてのスタートを切りました。大正末期に「モナミ」というレストランでたまたま一平とともに川端康成に会って以降、かの子は彼による小説の指導を受けていたのです。
かの子の小説からは、彼女の様々な面が垣間見られます。たとえば『母子抒情』はパリにいる太郎への愛を母と子の姿として描いています。彼女にもしっかりとした母親としての気持ちがあったことがうかがえる作品です。また、有名な『老妓抄』は当時の文壇にも絶賛されたもので、老いた芸妓が発明家志望の若い青年に家とお金を与えて囲う顛末を描いたものです。ここには、若い愛人たちから愛されたかの子とそのエロティシズムがうかがえます。
水を口から注ぎ込むとたちまち湯になって栓口から出るギザーや、煙管(きせる)の先で圧すと、すぐ種火が点じて煙草に燃えつく電気莨盆(たばこぼん)や、それらを使いながら、彼女の心は新鮮に慄えるのだった。
「まるで生きものだね、ふーム、物事は万事こういかなくっちゃ……」
その感じから想像に生れて来る、端的で速力的な世界は、彼女に自分のして来た生涯を顧みさせた。
「あたしたちのして来たことは、まるで行燈(あんどん)をつけては消し、消してはつけるようなまどろい生涯だった」
彼女はメートルの費用の嵩(かさ)むのに少なからず辟易しながら、電気装置をいじるのを楽しみに、しばらくは毎朝こどものように早起した。
『老妓抄』のこの部分には、宗教から得た達観のようなもの、そして自身の人生がよくあらわれているといえるでしょう。
『老妓抄』を発表し、作家としていよいよ円熟味を増してきたかの子でしたが、その翌年の1939(昭和14)年に青年と滞在していた三浦半島の油壺の宿で脳溢血に倒れます。そのかの子を当時の愛人であった新田亀三、そして夫の一平は献身的に看病しましたが、翌年2月にかの子はこの世を去ります。49歳、まだまだこれから文学者として、耽美かつ妖艶な作風を花開かせようとしていた矢先のことでした。
奇妙な夫婦生活を送りながらかの子を支え続けた一平は、かの子の死の2年後に再婚し、4人の子に恵まれました。そして1948(昭和23)年に死去しています。
岡本かの子の実像とは
かの子は『老妓抄』の最後に、つぎのような短歌を書き残しています。
としとしにわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり
瀬戸内寂聴が小説のタイトルにもした「いよよ華やぐ」が印象的なこの短歌からは、享楽的に愛人と生活している一方で、仏教を敬い、どこか諦観を漂わせて生きているかの子の姿がうかがえます。離れたまま、そうした母のことを太郎はどう思っていたのでしょうか。
東急田園都市線を二子新地駅で降り、3分ほど歩いたところに「二子神社」という小さな神社があります。ここには、印象的な白く大きな彫刻があります。1962(昭和37)年に立てられたもので、岡本太郎の「誇り」という作品です。作品の台座には「この誇りを亡き一平とともにかの子に捧ぐ 太郎」とあり、その横に先に挙げた短歌が添えられています。愛憎に塗れた家族でしたが、「誇り」と名付けたことに太郎の思いが強く込められているといえるでしょう。
岡本かの子の生き様は、けっして多くの人に支持されるものではないかもしれません。しかし、その作品のすばらしさは、誰もが認めるところだといえるでしょう。大阪万博開催決定で岡本太郎が見直されつつある今、その母かの子の作品に触れてみてもよいかもしれません。
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