天下人といえば織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の名前を思い浮かべる人が多いと思いますが、戦国時代において最初の天下人といわれているのが三好長慶(みよしながよし)です。若くして才覚を発揮した彼は、30代で政権を握るまでに上り詰めました。
名将でありながら過小評価されているともいわれる長慶は、一体どのような人物だったのでしょうか。その経歴や功績、最期についてご紹介します。
三好長慶の波乱に満ちた生涯
長慶の人生は幼少期から晩年にいたるまで波乱万丈でした。それは彼の出自にも関係があります。まずはその生い立ちと彼の残した功績について見ていきましょう。
幼くして父を殺される
長慶は大永2年(1522)管領・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として、現在の徳島県に生まれました。
細川家は足利将軍家の重臣「三管領」の一つで、政治的にも軍事的にも大きな力を持つ大名家です。その家臣だった父・元長は、晴元の政敵である細川高国を討つなど大きな功績を残しました。ところがその勢いを警戒した晴元や同族の三好政長・木沢長政らが謀略して一向一揆を起こし、元長は暗殺されてしまいます。そのため長慶はわずか10歳で家督を継承し、本拠地の阿波に逃げることとなったのです。
父の仇:細川晴元に仕える
元長殺害のために起こした一向一揆は、やがて晴元でも抑えられないほど大きくなり、享禄・天文の乱へと発展していきました。収拾がつかなくなったこの一揆を鎮静化させたのは、父親を殺された長慶です。『本福寺明宗跡書』によると、当時12歳だった長慶が、晴元と石山本願寺の一向一揆勢力の和睦を斡旋したとされています。これは元長が戦死して1年たらずの出来事でした。
長慶はこの直後に元服し、数年後には本願寺に味方をして晴元や政長と戦っています。しかし晴元の家臣の仲介もあり、まだ若年であることを理由に許され、その後は晴元の家臣となりました。
晴元・三好政長との対立
晴元のもとで離反や帰参を繰り返して勢力を拡大した長慶は、やがて石山本願寺からも一目置かれるほどの存在になりました。そんな中、ついに父の仇の一人・長政の征伐に成功します。また天文17年(1548)にはもう一人の仇である政長の追討を決意。これは政長が父の死に関係していたことを知ったからともいわれますが、理由は諸説あるようです。
しかし、政長は晴元から厚く信任されている人物だったため、長慶は越水城で軍議を開き「もし晴元が政長を庇うなら、主君である晴元も敵とみなす」ことを決定します。
足利将軍を都から追放する
長慶は晴元に政長父子の討伐を願い出ましたが、その意見は受け入れられませんでした。そのため、長慶はかつて敵だった細川氏綱・遊佐長教と手を組んで晴元に反旗を翻します。これにより政長は討ち取られ、晴元らは将軍・足利義晴と義輝父子たちを連れて逃亡、都は将軍不在の状況に陥りました。
将軍を都から追放した長慶は、主君として氏綱を立て、晴元派の伊丹親興がいる伊丹城を開城させ摂津を平定します。こうして幕府の実権を掌握した彼は、畿内を中心に8か国を支配する大名にまで上り詰めたのです。これは事実上の三好政権の誕生でした。
松永久秀の謀略と長慶の最期
10歳で家督を継いでから怒涛の巻き返しをはかった長慶。最初の天下人という呼び名に相応しい活躍を見せた彼ですが、その状況は長くは続きませんでした。
十河一存の急死が引き金に
長慶の衰退のきっかけは、永禄4年(1561)に起こった弟・十河一存(そごうかずまさ)の急死でした。一存は軍事的に重要な立場にいたため、これは三好家にとって大きな事件だったといえるでしょう。死因は病気とも事故ともいわれますが、陰謀説もあるようです。
一存の死によって彼が治めていた和泉の支配が弱まると、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主とした畠山高政と六角義賢の攻撃が始まります。この戦いは翌年まで続き、さらには弟の一人である三好実休(じっきゅう)が戦死しました。
嫡男の病死が追い打ちをかける
短期間に2人の弟を亡くした長慶ですが、翌年の永禄6年(1563)8月には嫡男・義興が22歳の若さで早世します。そのため一存の息子・重存(義継)を養子に迎えますが、将来を嘱望していた義興を失ったことは長慶にとって大きなショックでした。
またその年の12月には名目上の主君・氏綱も病死し、三好家の政権維持に必要な形式的な管領も失ってしまいます。
安宅冬康を誅殺し、病が悪化!
永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城に呼び出し誅殺するという事件を起こします。これは家臣・松永久秀から「冬康が謀反を起こそうとしている」と知らされたからでしたが、後に久秀の讒言だったことが発覚します。
『足利季世記』によると、この頃の長慶は相次ぐ不幸により心身に異常をきたし、病にかかって思慮を失っていたといいます。冬康の死後はさらに容体が悪化し、最後は飯盛山城で病死しました。
長慶の人物像とは
猛々しく戦い、政権を握った長慶ですが、その功績とは反対に性格は穏やかだったようです。長慶の人物像とはどのようなものだったのでしょうか。
早熟の天才型だった?
長慶はわずか12歳で晴元と一向一揆の和睦を仲介しています。元服前の少年が交渉を取りまとめるのは誰でもできるようなことではありません。このことから早熟の天才肌だったといえそうです。
また長慶は、信長と同じように堺の経済力に注目しており、貿易によって莫大な軍事費や軍需品を入手していました。曽祖父の代から受け継いだ周辺諸国との関係や軍事力に加え、このような鋭い視点があったことが勢力拡大につながったのでしょう。
和睦を繰り返す寛大な性格
戦いを繰り返した長慶ですが、最後まで敵を追い詰めることはなく、和睦をはかる寛大な性格でした。晴元と将軍・義輝を破った際は追撃せず、弟から晴元の三宅城を落とそうと提案されたときも拒否しています。それどころか晴元が帰京する際は警護し、優位な立場にありながら和睦を希望しました。『足利季世記』によれば、長慶はかつての主君と和睦できたことに涙したそうです。
また長慶は晴元の長男・昭元を人質にしていましたが、彼を殺すことなく晴元と再会させています。
晩年は連歌を好んだ
長慶には文化人としての側面もありました。当時の武将の中でも高い教養を誇っていた彼は、たびたび連歌会を開いていたといいます。晩年の彼が勇猛さを失っていたのは、連歌に没頭していたからという見方もあるようです。
松永貞徳の随筆集『戴恩記(たいおんき)』によれば、当時は長慶のこのような一面をなじる者もいたのだとか。しかし長慶はこれに対し和歌で反論しています。
短期間で消滅した三好政権
信長よりも早く天下人になったといわれる長慶は、戦いと和睦を繰り返しながら勢力を拡大していきました。それは三好政権を成立させるほど強大でしたが、残念ながらその名前は信長や秀吉ほど知れ渡ることはありませんでした。そこには長慶の寛大な性格が関係していたのかもしれません。
長慶の栄華は弟の死をきっかけに崩れ始め、最後は心身ともに病に侵されるという結末を迎えています。最初の天下人といわれる長慶は、短くも濃い、波乱万丈な生涯を送ったといえるでしょう。
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