幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第16回のテーマは「人見勝太郎」です。
京都在住の幕臣
幕末、戊辰戦争に身を投じ、幕府遊撃隊のリーダーとして激しく戦ったのが、人見勝太郎でした。盟友伊庭八郎とともに幕臣の誇りをかけて戦い抜いたその勇姿は、旧幕府軍戦士のなかでも燦然と輝いています。
誕生したのは天保14年(1843)9月16日。京都二条城詰めの鉄砲奉行組同心・人見勝之丞の長男として生まれました。幕臣すなわち徳川家臣の多くは江戸在住でしたが、なかには人見家のように、代々地方勤務の家もあったのです。
嘉永5年(1852)、10歳のときに儒学者牧百峰に入門して学問を学び、のち大野応之助に西岡是心流剣術、さらに山田某のもとで西洋砲術の手ほどきを受けます。文武両道に励んだ若き日の人見でした。
しかし、25歳の慶応3年(1867)10月、人見の運命を大きく変える出来事が起こります。大政奉還によって徳川家が政権を失い、260余年続いた幕府が崩壊してしまったのです。
さらに将軍徳川慶喜の辞官納地を要求する新政府側と、旧幕府側は一触即発の状況となりますが、そんなところに江戸から幕府方の一部隊が上洛してきます。その名も遊撃隊ーー。講武所の剣槍の遣い手たちを中心に、前年に創設された頼もしい隊でした。
この遊撃隊に、人見も加わります。江戸の幕臣たちと顔を合わせるのは初めてのことでしたが、ともに協力して横暴な新政府軍を撃退しようと誓い合ったのでした。
年明けの慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍と新政府軍が京都南郊の鳥羽伏見で激突します。遊撃隊も130人が伏見で奮戦したものの、最新鋭の武器を備えた新政府軍の前に、剣槍中心の遊撃隊はあえなく敗北。旧幕府全軍は多数の死傷者を出し、江戸まで撤退せざるをえなかったのです。
相棒・伊庭八郎との出会い
人見勝太郎にとっては散々な初陣となりましたが、遊撃隊のなかに伊庭八郎という気の合う男がいたことは幸運でした。江戸に着いた人見は、この伊庭と語らい、新政府軍への徹底抗戦を決意します。
人見26歳、伊庭は25歳。講武所出身の伊庭とは人見は知り合って日も浅かったはずですが、血気盛んな性格が共鳴し合ったのでしょう。二人はこのあと、まさしく「相棒」と呼ぶにふさわしい存在として、ともに戦い続けることになります。
4月11日、徳川慶喜が江戸城を明け渡して水戸に隠退するにあたり、遊撃隊本隊は慶喜を護衛して水戸まで随行しました。このとき人見と伊庭は、千住大橋まで見送ったあと34人の同志とともに隊を脱走。以後この36人は、遊撃隊の脱走隊として独自の行動をとることになるのです。
彼らは4月28日、船で上総木更津に上陸し、請西藩一万石の若き藩主・林昌之助忠崇に協力を依頼しました。21歳の林は、人見と伊庭とはそれまで面識はありませんでしたが、彼らをひと目見て気に入り、同盟を約束します。
のちに林は、次のように語り残しています。
「伊庭は義勇の人、人見は知勇の人、二人とも立派な人物だったからこれにおっかぶさった。伊庭の風采は小さくて細くて華奢なほう、人見はやや太めのほうであった」(「林遊撃隊長縦横談」)
人見は当時の写真を見ると決して太っているようには見えませんが、伊庭も林もかなりのやせ形でしたから、それにくらべると太めに思えたのかもしれません。
また林はこのようにも語っています。
「伊庭が正面から説けば人見はネチネチと側面から攻めるといった風で、二人がかりでやられるとたいていの人は説き伏せられる。人見は西京の与力出の男で、関西弁を使い文章が立った」(同書)
ネチネチとというのには笑わせられますが、人見と伊庭が名コンビであったことはこの話からもうかがえます。それと特筆されるのが、人見が関西弁を使ったという部分です。
京都に生まれ、ずっと現地に住んでいた人見としては当然のことなのですが、改めて関西弁を使ったなどといわれると、目からウロコが落ちる思いがします。先日放送されたNHKの「歴史秘話ヒストリア」では、劇中で人見に関西弁を使わせており、しっかりした考証が印象的でした。
戊辰戦争そして新時代へ
息のよく合った人見と伊庭でしたが、どちらかといえば人見のほうが気が短く、行動に荒々しいところがあったようです。
遊撃隊が駿河の沼津に足止めを食って滞陣していた5月19日、我慢ができなくなった人見は自分の分隊だけを率いて独断で出陣するという事件を起こしています。伊庭と林があとを追いかけ、なんとか事なきをえたものの、一歩間違えば全軍の破滅につながりかねない行動でした。
続く26日、箱根山崎の戦いが起こり、相棒の伊庭が左手首を失う重傷を負って戦線を離脱。やむなく人見は、ひとり遊撃隊を率いて奥州に転戦し、仙台で榎本武揚の旧幕府艦隊に合流します。榎本が新政府軍に抵抗する旧幕臣たちを糾合し、蝦夷地の箱館(函館)に渡ろうとしていることを知り、それに加わったのです。
元号は9月8日に明治と変わり、彼らは10月20日に蝦夷地に渡航。蝦夷地では箱館五稜郭を本拠とする箱館政府が樹立され、榎本が総裁、人見も閣僚13人の1人として松前奉行に選ばれました。松前とは箱館の西方の要衝で、そこを守る重要な任務が人見にまかされたのです。
この蝦夷地には、江戸で分かれて以来離ればなれだった伊庭も遅れてやってきました。左腕を失いながらも独力で馳せ参じた伊庭の執念に人見は感激し、再びともに戦えることをよろこびあったのでした。
しかし、翌明治2年(1869)4月に蝦夷地に上陸した新政府軍の猛攻の前に、箱館政府軍はなすすべもなく敗北します。伊庭も木古内の戦いで被弾し、五稜郭の本営でついに絶命。多くの遊撃隊士も戦死をとげました。
人見は最終決戦となった5月11日、乗馬で七重浜に出陣しますが、敵の軍艦が海上から大砲を撃ち放ち、人見を馬ごと吹き飛ばします。このため顔面に大怪我を負った人見は戦闘不能となり、従者が引いてきた別の馬にまたがって、そのまま箱館山の病院に駆け込みました。
ここで治療を受けていた最中の5月18日に箱館政府軍は降伏し、戊辰戦争は終わりを告げました。終戦の知らせを病床で聞いた人見の心境はいかがなものだったでしょうか。はからずも生き延びてしまった人見としては、不完全燃焼の思いは強かったでしょうが、これも運命かと、あるいは達観していたかもしれません。
維新後の人見は、諱をとって人見寧(やすし・ねい)と改名し、明治9年(1876)、内務卿大久保利通の推挙によって明治政府の勧業寮に出仕します。同13年には茨城県令となり、18年まで在職。その後は民間に転じ、利根運河株式会社の初代社長などをつとめました。
没したのは大正11年(1922)のこと。命知らずの戦士には似合わない80歳という長寿には、当の人見自身が運命の不思議さを感じていたことでしょう。
「世界一よくわかる幕末維新」(著:山村竜也/祥伝社)
NHK大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」の時代考証家が、ペリー来航から西南戦争終結まで、政治的にも複雑な幕末維新期をわかりやすく紹介。幕末初心者はもちろん、学び直しにもぴったりの一冊。
【風雲!幕末維新伝】連載一覧
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第14回「渋沢栄一と新選組の知られざる交流とは!」
第13回「坂本龍馬は勝海舟を本当に斬ろうとしたのか?」
第12回「新選組の制服羽織の実際を探る!」
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