歴人マガジン

【清の全盛期に君臨した男】乾隆帝とは、どんな皇帝だったのか?

乾隆帝と瓔珞(「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」より)

 

チャンネル銀河で2019年12月3日(火)から放送をスタートする、中国歴史ドラマ「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」。そして2019年11月よりDVDリリースを開始した「如懿伝(にょいでん)〜紫禁城に散る宿命の王妃〜」。清朝の同時代を描いたこの2作品をより楽しんでいただけるよう、その主要人物である乾隆帝(けんりゅうてい)および、清という国や周辺情報などをまとめてみた。

女真族出身のヌルハチが1616年に満州で建国し、1644年から1912年まで中国大陸とモンゴルを支配した征服王朝・清(しん)。その期間は268年間で、時期や長さだけで見れば、日本の江戸時代(1603~1868年=265年)に似ている。

そんな清の最盛期が、第6代・乾隆帝の時代だ。乾隆帝は12代にわたって続いた清の歴史のなかで60年もの長期政権を布き、生没年も1711~1799年と、数えで89歳の長寿にも恵まれた。

「太子密建」で即位した初めての皇帝

25歳で帝位についた乾隆帝(「如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜」より)

乾隆帝は父で先代の雍正帝(ようせいてい)の四男で、本名を弘暦(こうれき)という。父が没し、25歳で皇位を継承したが、この継承者となった経緯がすこし変わっている。父・雍正帝は生前に後継者を公表せず、ひそかに後継者の名前を書いた勅書をつくっておき、紫禁城内、玉座の上にある扁額の裏側に隠した。そして、それと同文の勅書も用意し、手元に置いておいた。

雍正帝の死後、その2枚を照合して次の皇帝の名が読み上げられた。太子密建(たいしみっけん)という、この皇位継承の方法は雍正帝自身が先代の四男であったこともあり、激しい継承争いを経験したため、その反省から考案したという。

親征して清の領土を最大に広げる

乾隆帝は清朝の最盛期を築いた(「瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~」より)

そうして帝位についた乾隆帝が、何よりも力を注いだのは、さらなる版図拡大だった。西モンゴルのジュンガル部をはじめ、現在の台湾、ミャンマー、ネパール、ベトナムなどに進出。漢や唐をしのぐ、中国史上空前の大領土を獲得した。

「十全武功」といわれる10回に及んだ遠征にすべて勝利したという意味で、乾隆帝はみずからを「十全老人」と称した。清は漢民族を倒して君臨した征服王朝であるが、そのトップにふさわしい業績といえよう。

巡幸(皇帝の旅行)も、60年の治世の間に南巡6回、西巡5回、東巡4回と積極的に行なった。皇帝が元気な姿を万民に見せるのは、太平を誇示することにもつながった。一方で税の減免をたびたび行うことで民心を得ていった。

こうした安定政権の実現は、祖父・康熙帝(こうきてい)、父・雍正帝の勤勉さと倹約ぶりが下地になっている。明の時代に1日で使われた宮廷費用を、清は1年分にあてた。明の滅亡は奢侈が原因とされていて、その戒めでもあった。このため、清の国力は乾隆帝が帝位につくころには相当に充実していたのだ。

もちろん、その体制を維持、円滑に運用するのも容易ではない。乾隆帝は祖父の代からの遺産を生かしつつ、銀の増産と海外からの大量流入により、経済を潤して軍費を確保したのだ。

政治面以外の業績としては、乾隆帝は数多くの漢詩を作る詩人の素養もあり、中国の伝統的な文学を奨励した。その象徴が「四庫全書」である。これは1773年から10年を費やして、全国から古今の書物を集めて4部(四庫)に分け、書き写して保存したものだ。その数、全3462種、7万9582巻。一方で清の王族を含む異民族を敵視する書物を厳しく検閲し、1万巻以上を禁書として焼いている。

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