チャンネル銀河で2020年2月5日(水)よりCS初放送を開始する「連続テレビ小説 あさが来た」。これを記念し、同ドラマの資料提供を担当された歴史作家・山村竜也先生に主人公・あさのモデルとなった広岡浅子の生涯について語っていただきました。
京都の豪商三井家に生まれる
のちに明治時代の女性実業家として名をはせる広岡浅子は、江戸時代末期の京都に生まれました。嘉永2年(1849)ですから、ペリーのアメリカ艦隊が浦賀に来航する4年前のことになります。
生家は豪商として知られる三井家で、当時隆盛を誇っていた三井には、本家と分家を合わせて三井十一家と呼ばれる11の家系がありました。そのなかでも本家の一つ、京都の油小路出水に屋敷を持つ出水三井家が浅子の生まれた家です。
父の名は三井高益といい、浅子はその四女とされていますが、事実は少々複雑でした。高益には正妻との間に一男三女がありましたが、子供たちは全員夭逝し、妻も早くに亡くしていました。
その後、十一家のうちの南家から養子に高喜を迎え、高益自身は妾との間に「はる(春)」、別の妾との間に「あさ(浅子)」をもうけました。つまり「はる」と「あさ」は異母姉妹であり、朝ドラ「あさが来た」における「はつ」と「あさ」の関係はドラマとして脚色されたものということになります。
ちなみに、浅子の本名は「あさ」で、浅子というのは明治時代になってから自ら「子」をつけて名乗った名前です。江戸時代の女性で「子」の字をつけるのは公家に限られており、その他の者が「子」をつけることはありませんでした。
それが、明治時代中期に庶民の女性の名前に「子」をつけることが流行し、戸籍名はそのままで、もともとの名前に「子」をつけて名乗る女性が大量にあらわれたのです。浅子以外の有名人では、津田梅子や新島八重子などもその例でした。
嫁ぎ先は大坂の豪商加島屋
浅子は2歳のときに、早くも嫁ぎ先が決められました。相手は三井家とは深い交流のある、大坂でも有数の豪商・加島屋(広岡家)でした。
加島屋は両替商を営み、当主・広岡久右衛門の次男の信五郎は分家に養子に行っていましたが、この信五郎が浅子の許嫁となりました。信五郎は浅子より8歳年上の、それでもまだ10歳。当時は本人たちの意向は考慮されず、親同士の都合で結婚相手が決められることは珍しくありませんでした。
子供の頃の浅子は、木登りをしたり、相撲を取ったりするのが好きな活発な少女でした。良家の令嬢とは思えない、いわゆるお転婆娘だったのです。
さらに浅子は、学問に興味を持つようになりました。その頃のことを、のちに自伝『一週一信』に書き記しています。
「私の兄弟や従兄弟等は、学問を一時も怠ってはならぬと、指導を受けておりましたが、傍らに見ておる私は、女なるが故に学問は不要だと云わるるのを、熟々残念に思いました。それで人知れず四書五経の素読に耳傾けては学問に非常なる興味を持つようになりましたので、家人は大いに心配して、厳重な制裁を加え、私の十三歳の頃、読書を一切禁ずるようにと申し渡されました」
女子には学問は不要とされていた時代のことでした。読書を禁じられた浅子は、親の言いつけだからとやむなく従いましたが、女子に学問はいらないというのは道理に合わないと内心不満に思い続けていました。
やがて17歳となった慶応元年(1865)の4月3日、浅子は許嫁の加島屋分家・広岡信五郎と祝言をあげました。ちなみにこのとき、姉の春も一緒に大坂に下り、やはり豪商の天王寺屋五兵衛に嫁いでいます。
すでに父の高益は没し、家督は兄の高喜が継いでいましたが、三井家としては加島屋、天王寺屋という大坂の有力商家との結びつきを強固なものにして、家の安泰をはかろうと考えていたのです。
浅子にとってありがたかったのは、嫁ぎ先の加島屋分家では女性が学問をしてもまったくとがめられなかったことでした。この家風の違いを浅子は喜び、あらためて好きな読書に励む日々を送るようになったのです。
新選組に400両を融資する
浅子の夫となった広岡信五郎は、8歳年上の25歳。性格がやさしく、おっとりしているのはよかったのですが、商売に熱心ではなく、謡曲や茶の湯といった趣味に明け暮れているような人物でした。
そのせいもあって、浅子の興味は次第に家業の商売のほうに移っていきます。夫の道楽のために加島屋分家が万一傾くようなことがあれば大変でしたから、自分も商売のやり方を覚えておいたほうがいいと考えたのです。
以後の浅子は、簿記や算術、商取引に関する書物をむさぼるように読み、短期間のうちに加島屋分家になくてはならない存在になりました。夫の道楽はその後も続いたため、加島屋分家は、実質的に浅子と番頭が切り盛りしているような状態となったのです。
その間、本家の加島屋は信五郎の弟の正秋が久右衛門の名を継ぎ、安定した経営をおこなっていました。正秋は信五郎とは正反対の、しっかり者の弟でした。
そんな加島屋本家に、慶応3年(1867)12月8日、招かれざる客が来訪します。京都の治安維持のために働いていた新選組の副長土方歳三です。
土方は正秋こと久右衛門に対し、幕府のためとして400両の金を借用することを申し入れました。実はこのとき、新選組では4000両を必要としており、同日に大坂の豪商10軒から均等に400両ずつ借り入れをおこないました。
正秋は困惑しましたが、やむなく蔵の中から400両の現金を出し、土方に渡しました。このときの「慶応三丁卯十二月 土方歳三 広岡久右衛門殿」と記された借用証は現存しており、大同生命保険によって保管されています。
「あさが来た」では、土方がやってきたのは浅子の家のような描写になっていましたが、正しくは右記のとおり加島屋本家のほうでした。したがって浅子が土方のことを恐がりながらも、「そのお金、本当に返してくれるんですやろな」と言い放った名場面はドラマ上の脚色ということになりますが、もし浅子が応対したならば、家を守るため、実際にそんな啖呵をきったのではないでしょうか。
(後編に続く)
「連続テレビ小説 あさが来た」
放送日:2020年2月5日(水)放送スタート 月-金 朝8:15~ 2話連続
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/asagakita/
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