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【明智光秀が再起を願い、拝んだ丸岡城下の仏像とは?】越前に残る光秀のあしあと 前編

汚名をかぶっていた人が、一転英雄になってしまう。時代が変わり、立場や価値観が変質すれば、そんな例は古来たびたび起きるもの。「本能寺の変」で織田信長を殺した明智光秀は、昔から「逆賊」や「反逆者」扱いされていたが、逆に同情的な見方もあり、一定の人気を保ってもいた。そして2020年、とうとう大河ドラマの主役にまでなってしまった。

明智光秀。その人気ぶりとは裏腹に、とにかく謎の多い人物である。足利義昭を奉じて上洛した信長に永禄12年(1569)から仕えることになった。が、はっきりしているのは、そこから「本能寺」までの13年間で、それ以前に関する一次史料はほとんどない。人生の大半をどこで過ごし、何をしていたのか、分からないことが多すぎるのだ。

しかし、歴史界は日進月歩。各地で研究が進み、これまで謎とされてきたその足跡が少しずつ分かるようになってきた。信長に仕える前、光秀が長く住んでいた場所として名前が挙がるのは、朝倉氏が支配した越前(福井県北部)だ。

丸岡城のすぐ近くに、光秀の旧居跡?

現在の福井に、光秀の足跡は残っているのだろうか。それを探るために現地へ行ってみよう。最寄りの小松空港からまず向かったのは、福井県の北部にある坂井市丸岡町。その名前のとおり、街の中心地にはシンボルともいえる「丸岡城」がそびえている。

小さいながら、古めかしい外観の天守は江戸時代から歴史を刻む「現存12天守」のひとつ。柴田勝家が甥の勝豊に天正4年(1576)に築かせた城で、現存最古の天守といわれていた。2019年の調査で、今に現存する天守は江戸時代の寛永年間(1624~1644年)築造と推定され、松本城や犬山城よりも新しいのではないかとする説も浮上したが、それでも古いものは古い。希少性の高い日本の宝といえよう。

さて、その丸岡城天守から西へ約3km。称念寺(しょうねんじ)という寺がある。ここは鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の寺。燈明寺畷(とうみょうじなわて=現在の福井県福井市)の戦いで戦死した新田義貞の遺骸がはこばれ、菩提寺となったことで名高い。

「明智光秀、再起」と書かれた幟(のぼり)がはためく境内。どんな関係があるのかといえば、大ありなのだ。まず寺伝によれば、弘治2年(1556)、光秀は美濃から落ち延びて、妻の煕子(ひろこ)や家族とともに越前へ来た。母親のお牧の方が称念寺の末寺・西福庵の縁者であったことから、それを頼って西福庵に居を構えることとなる。それから門前に寺子屋を開き、生計を立てた。また『明智軍記』によれば、本寺にあたる称念寺の住職とも交流をむすび、和歌を詠み、漢詩を作ったという。

光秀が拝んだ仏像が今も本堂に

『明智軍記』は光秀の没後、かなり後に記されたために創作も多く、典型的な二次資料とされ、重視されないことが多い。しかし近年、一次史料にあたる『遊行三十一祖 京畿御修行記』という記録が見つかった。写本ながら相模・遊行寺の31代住職・同念上人が記したもので、その使者に光秀自身が語ったとする来歴が載っている。それによれば、「自分はもともと濃州(美濃)土岐一家の牢人で、越前国の朝倉義景を頼り、長崎(越前)称念寺門前に十ヶ年居住」と語ったという。光秀が美濃から越前に来て、称念寺の門前に10年間暮らしていたことが裏付けられたのである。

三尊来迎仏のひとつ、阿弥陀如来像

「光秀は門前に10年も暮らしていましたから、当寺に参拝する機会もたびたびあったはずです。この仏像の前で手を合わせたと思われます」
ご住職の髙尾さんが本堂へ招いてくださった。御堂自体は昭和の震災で被害を受けて建てなおしたものだが、阿弥陀三尊来迎仏(あみださんぞんらいごうぶつ)は、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊仏で、鎌倉時代から伝わる神々しい姿をしている。光秀もこの前で拝み、不遇の身のうえからの出世を願い、再起を誓ったのかもしれない。

寺伝には光秀の妻が自分の黒髪を切って売り、それを費用にして連歌会の準備をし、夫を支えたという伝承もある。その話は近隣によく知られていたのだろう。松尾芭蕉がこの寺に立ち寄った際、光秀夫妻を偲んで詠んだ歌碑がある。「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」という歌だ。ここに来た芭蕉もこの逸話に心を動かされたのだろうか。

「あけっつぁま」と慕われる光秀、第二の旧居とは?

そしてもう1つ、光秀の足跡を刻む聖地がある。丸岡町から南へ20km。その名も「明智神社」(福井県福井市東大味町)というお社だ。案内看板に「あけっつぁま」(明智さま)とあり、この地域の人々がそう呼んで親しんでいる様子を伝えている。

地元・東大味町(ひがしおおみちょう)に伝わる逸話では、光秀は最初は称念寺の門前に住んでいたが、やがて朝倉氏に仕えることが決まり、住まいも一乗谷に近い当地に移したという。ここにいたのは永禄5年(1562)から永禄9年(1567)までの5年間という。

地元の人々は娘の玉(のちのガラシャ)もここで生まれ、彼女の生誕地でもあると考えている。その後、光秀は信長に仕えることになったため越前を離れたが、この地で暮らした日々や、交流した人々のことを大切に思っていたらしい。

天正元年(1573)、信長は越前を攻め落とし、朝倉氏を滅ぼした。朝倉氏の本拠地・一乗谷は火がかけられ、建物は灰燼と帰す。しかし、一乗谷と隣接する東大味は無事であった。これは近隣の北ノ庄城を拠点とする柴田勝家が火をかけなかったためで、それを命じる書状2通が現存している。あるいは光秀が勝家に頼み込み、善処してもらったのではないかと見られている。

その後、光秀が山崎の戦いに敗れて没した後、東大味の人々は大恩人・光秀の遺徳を偲んで坐像をつくり、ひそかに祀ることにした。光秀が「逆賊」の汚名を被るなか、近隣3軒の農家が光秀像を守り続けてきたそうだ。そして江戸時代も遠くなった明治19年(1886)、ようやく神社として秘仏(光秀像)を公に祀ることとなったという。

住民らは今でも光秀を慕い、命日の6月13日には法要が営まれている。その法要における祭礼では御開帳が行われ、本尊である光秀の黒色の木像が見られる。周辺にある農家の方々が大切に守り抜いてきた、高さ13㎝の小さな光秀座像は人々にとっての心の拠りどころとなっている。今まではあまり語られなかった光秀の善政ぶりや人物像の広まりにより、光秀人気はさらに高まっていきそうだ。

光秀が越前で過ごした「10年」というのが、一体いつからいつまでなのか。それを確実に裏付ける史料がないため、なお謎は残るが、この地には確かに光秀の面影が宿っているように思える。なんだか、2020年の大河ドラマがさらに楽しみになってきた。次回は、光秀が主人の足利義昭に従って足を運んだと思われる、朝倉氏の本拠地「一乗谷朝倉氏遺跡」を訪ねたいと思う。

文・上永哲矢

 

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