チャンネル銀河で2020年2月5日(水)よりCS初放送を開始した「連続テレビ小説 あさが来た」。これを記念し、同ドラマの資料提供を担当された歴史作家・山村竜也先生に主人公・あさのモデルとなった広岡浅子の生涯について語っていただきました。
(前編はこちら)
明治維新と銀目廃止
慶応4年(1868)の年が明けると、20歳になった広岡浅子(あさ)に最初の試練が襲いかかりました。明治政府による貨幣制度の変革です。
旧幕府の時代は、金、銀、銭の三種類の貨幣が社会に流通していましたが、明治新政府は5月、そのうちの銀貨を廃止することを布告しました。銀はほかの貨幣と違い、重量によって価値が変わるという不便な面があったため、新時代の貨幣制度にそぐわないとみなされたのです。
この布告を「銀目廃止」といいますが、驚いたのは大坂の人々でした。実は銀はそうした不便な貨幣であったことから、多くの人々は両替商に銀貨を預けて、「銀目手形」という保証書を受け取って所持していました。それが突然、銀貨は廃止すると布告されたことで、みな自分の持っている銀目手形は無効になってしまうのではと不安にかられ、両替商に換金のために殺到したのです。
このとき両替商側が運が悪かったのは、大抵の店は利息を稼ごうと銀貨を大名などに融資しており、蔵にはすでに預かった分だけの銀貨は残っていなかったこと。これにより各両替商は人々の換金要求に応じることができず、破産倒産する店が相次ぎました。
浅子の加島屋はなんとか都合をつけて人々への支払いをやりとげ、倒産はまぬがれましたが、大坂中で30軒以上の両替商が店じまいに追い込まれました。そのなかには浅子の姉はるが嫁いだ天王寺屋も含まれており、浅子を悲しませたのです。
この事件のあと、加島屋を立て直すために浅子は本格的に家業に力を入れるようになります。夫の信五郎、義弟の正秋と力を合わせ、女の身ながら実業界に乗り出していくのです。
加島銀行と筑豊炭坑
明治6年(1873)に第一国立銀行が創設されて以来、日本には多くの銀行が設立されました。旧幕時代の両替商が銀行に転ずる例も多かったので、浅子も早くから着目していたビジネスでしたが、自身の出産などが重なり、実現にはだいぶ年数を費やすことになります。
ようやく「加島銀行」の名で銀行業務を始めることができたのは、明治21年(1888)のこと。頭取に就任したのは義弟・正秋。事業をささえる浅子は40歳になっていました。本店を置いたのは、大阪土佐堀にあった旧加島屋の敷地で、この銀行業務は以後長く広岡家の主要事業として営まれていくことになります。
加島銀行が軌道に乗ったとみた浅子は、次に新たな事業を手がけました。それが「炭坑経営」です。すでに銀行設立と平行して浅子は九州筑豊の潤野(うるの)炭坑を買い取り、石炭の採掘を試みていました。しかし、同炭坑は地層が固く、始めの頃はまったく採掘が進みません。
それで休業状態になっていた潤野炭坑に、明治28年(1895)、浅子が自ら乗り込んで採掘の指揮にあたったのです。47歳になっていた浅子は、炭坑労働者と生活をともにしながら作業を監督し、護身用にピストルをいつも携帯するという猛烈ぶりでした。
その執念が実り、2年ほどで潤野炭坑の産出量は急増し、炭坑事業を成功に導くことができました。女実業家・広岡浅子の名は、これにより一層大きく広まったのです。
日本女子大学創立の援助
明治29年(1896)、浅子のもとを成瀬仁蔵という男が訪れました。成瀬は教育者で、梅花女学校の校長をつとめる人物でした。
当時、成瀬は日本初の女子大学を創設することを考えており、そのために浅子に資金援助を依頼しにやってきたのです。女性でありながら実業家として成功している浅子は、必ずや女子教育に理解を示してくれるであろう存在でした。
成瀬が熱く語る女子教育論に聴き入り、成瀬が書いた『女子教育』という著書を熟読した浅子は、胸を打たれます。そして、女子大学創立準備金として多額の寄付を申し出たのです。
思えば自分が少女の頃、男子のような学問をすることが許されず、つらい思いをしてきた過去が浅子にはありました。そんな自分のような思いを後進の女子たちにはさせたくないという思いが、浅子を動かしたのでしょう。
浅子は自分が寄付をするだけでなく、当時の大物財界人である岩崎弥之助、住友吉左衛門、鴻池善右衛門らに声をかけ、賛同を得ます。さらに、実家の三井家に頼み込み、東京目白台の三井の別荘地を女子大学の建設用地とすることができました。
そして明治34年(1901)4月、念願の日本女子大学校(現・日本女子大学)が開校したのです。成瀬は初代校長。浅子は評議員という立場で協力を続け、自宅のある大阪からたびたび上京して、女学生たちと交流したといいます。
大同生命創立と晩年
日本女子大学校が開校したのと同じ頃、浅子は生命保険業にも進出しています。明治32年(1899)、浄土真宗門徒を中心とした真宗生命保険から支援を求められた加島屋は、真宗生命を事業傘下に入れて朝日生命(現在の朝日生命とは異なる)と改称しました。
しかし、規模の小さな保険会社では顧客も安心感を持てず、利益も出ないことに気づいた浅子は、そのころ同様に経営不振となっていた護国生命と北海生命の2社も合併することに成功し、明治35年(1902)、3社による新しい保険会社を設立しました。
これが、現在までも続く「大同生命」です。「大同」の意味は「小異を捨てて大同につく」。つまり「細かな食い違いはあっても、大筋で一致しているところをとって協力する」のが大事だということです。初代社長には、義弟正秋が就任しました。
この大同生命は、浅子のねらいどおりに顧客が増え、銀行業などを含めた加島屋の業績は大いに向上します。まさに往年の隆盛か、それ以上の躍進を加島屋はとげることができたのです。
しかし、明治37年(1904)6月に最愛の夫・信五郎が64斎で没すると、浅子は思うところがあったのでしょうか。娘婿の恵三にすべての事業を譲り、自らは56歳で実業界からすっぱりと身を引いてしまいます。
その後の浅子は、大病を患ったりもしながら大正8年(1919)まで生き、1月14日に71歳で生涯を閉じたのです。
浅子が好んだ言葉に、「九転十起」(きゅうてんじゅっき)というものがあります。「七転び八起きとよくいうが、それなら私は九回転んでも十回起きあがる人間になろう」という意味が込められた人生訓です。波乱に満ちた人生を力強く生きた、浅子を象徴しているような言葉ではないでしょうか。
「連続テレビ小説 あさが来た」
放送日:2020年2月5日(水)放送スタート 月-金 朝8:15~ 2話連続
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/asagakita/
<関連記事>
【“びっくりぽん!”な一代記】「連続テレビ小説 あさが来た」2020年2月よりCS初放送
【松平定知が語る】「あさが来た」のモデル・広岡浅子の魅力とドラマの見どころ
【大阪の恩人:五代友厚】渋沢栄一と肩を並べた美貌の実業家